※画像はイメージです。脇坂安治
Wakisaka Yasuharu
賤ヶ岳七本槍の一人・豊臣水軍を率いた武将
解説
生涯と出自
脇坂安治(わきさか やすはる)は天文23年(1554年)、近江国浅井郡脇坂庄(現・滋賀県長浜市)に生まれた。初め浅井長政に仕えたが、浅井氏滅亡後は織田家、続いて羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになる。16歳で初陣を飾り、播磨・三木城攻めでの活躍により、後に脇坂家の家紋となる「輪違い」文様の赤母衣を秀吉から拝領したと伝わる。
賤ヶ岳の七本槍
安治の名を天下に知らしめたのが天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。福島正則・加藤清正らとともに柴田勝家軍相手に奮戦し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられて山城国内に3000石を与えられた。七本槍の中でも当時すでに30歳と最年長格であったが、遜色ない武功を挙げたことで知られる。
水軍指揮官としての活躍
天正13年(1585年)、安治は淡路国洲本城主となり大名に列した。淡路水軍を吸収して洲本城を海上拠点として整備し、豊臣水軍の中心的指揮官として台頭する。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では加藤嘉明・九鬼嘉隆らと共に水軍を率いて渡海し、各地の海戦に従軍した。小田原征伐でも水軍による海上封鎖任務を担っている。
関ヶ原の戦いでの転身
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初西軍に属して布陣したが、小早川秀秋の東軍寝返りに呼応して安治も東軍側に転じ、大谷吉継隊の平塚為広・戸田勝成両隊を攻撃してこれを壊滅させた。この行動は「裏切り」として論じられる一方、戦後は本領を安堵され徳川政権下でも大名としての地位を保った。
晩年
慶長14年(1609年)、淡路洲本から伊予大洲へ加増移封され、5万3500石を領した。元和元年(1615年)に家督を子に譲って隠居し、京都西洞院に移り住んだ。寛永3年(1626年)8月6日、73歳で没した。
後世の評価
浅井・織田・豊臣・徳川と主家を渡り歩きながら、常に武功と実務能力で身を立てた脇坂安治は、七本槍の中でも数少ない「最後まで大名として生き残った」武将として知られる。龍野神社には安治が賤ヶ岳の戦いで用いたと伝わる十文字槍が伝存し、その武勇を今に伝えている。