※画像はイメージです。宇都宮国綱
Utsunomiya Kunitsuna
下野宇都宮氏の22代当主——秀吉に18万石を安堵されるも、のち改易
解説
宇都宮国綱(うつのみや くにつな)は、下野国の戦国大名で、大名としての宇都宮家最後の当主である。永禄11年(1568年)に生まれ、慶長12年(1607年)に江戸浅草の石浜で病死したとされる。享年40で、没日は1608年1月9日とされる。
生涯
天正4年(1576年)に父・広綱の死で22代当主となった。若年であったため、壬生氏や皆川氏など国内勢力が活発になり、後北条氏の侵攻も激しくなった。佐竹氏、結城氏、武田勝頼、織田信長、豊臣秀吉と結んで対抗した。
主要戦歴
天正12年(1584年)の沼尻の合戦は引き分けに終わったが、戦後処理で周辺勢力が離反した。翌天正13年(1585年)の薄葉ヶ原の戦いでは那須氏に敗れている。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣し、下野18万石を安堵された。その後は文禄の役などにも従い、文禄3年(1594年)には豊臣姓を与えられた。
改易
慶長2年(1597年)、秀吉の命で突然改易された。理由には諸説あり、浅野長政の子を養子に迎えようとして弟・芳賀高武が反対し、側近を殺害して長政の恨みを買ったとする説、石高を偽ったとする説、家臣団統制をめぐる対立とする説などがある。近年は軍役を果たさなかったことが理由とする説が有力視されている。
後半生
宇喜多秀家に預けられ、慶長の役では順天城の戦いで武功を立てたが、秀吉の死で再興は叶わなかった。のち伊勢神宮に再興を願い出る一方、徳川家康に仕えたことが記録される。関ヶ原の戦いでは弟の芳賀高武と結城朝勝がともに西軍についたため、再興はできなかった。子の義綱は水戸藩士となり、妻の小少将は徳川和子の乳母を務めた。