※画像はイメージです。安土桃山時代1568-1595
豊臣秀次
Toyotomi Hidetsugu
第2代関白・左大臣
解説
豊臣秀次(1568-1595)は豊臣秀吉の姉・瑞竜院日秀の子として生まれ、秀吉の養子として豊臣政権の後継者に指名された武将・政治家である。正二位・左大臣に叙任され、天正19年(1591年)に秀吉から関白職を譲られて第2代関白となった。
軍事面では小牧・長久手の戦い(1584年)や紀州征伐・四国征伐・小田原攻めに参加。山中城攻撃では指揮を執るなど実戦経験も積んだ。関白時代は聚楽第を拠点に国内統治を担い、秀吉が朝鮮出兵に専念する間、国元の行政を執行した。
文化的素養も高く、連歌・和歌を嗜み、千利休に師事して茶道を修め、能楽の注釈書を残した。古典籍の蒐集家としても知られる。
刀剣との関わりでは、村正の刀「一胴七度(いちどうしちど)」を所持したと伝えられる。秀吉から刀剣の鑑定・試し斬り等を命じられた記録が残っており、刀剣文化と関わりの深い人物であった。
文禄4年(1595年)、秀吉の実子・秀頼誕生後に謀反の疑いをかけられ、高野山に配流の後、切腹を命じられて28歳で没した。その死に連座して妻妾・子女ら数十人が三条河原で処刑され、聚楽第も取り壊された。死後も「殺生関白」と呼ばれる悪評が付きまとったが、宣教師ルイス・フロイスの記録では「温和で思慮深く広く愛された」と記されており、近年の研究では再評価が進んでいる。
所持した刀剣
- 一胴七度(村正)