※画像はイメージです。戦国〜江戸初期1563-1633
寺沢広高
Terazawa Hirotaka
唐津藩初代藩主、唐津12万石の大名にして島原の乱の遠因を作った外様大名
解説
寺沢広高(1563-1633)は豊臣秀吉の奉行として頭角を現した武将で、特に朝鮮出兵時の外交交渉・兵站に辣腕を振るった。関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に与し、戦功として天草を加増され、肥前唐津と合わせて約12万石を領した。唐津城を築いて藩政の基盤を整え、海外貿易や農業開発にも力を注いだ。しかし後継の広高の息子・堅高(かたたか)の代に、農民への過酷な年貢取り立てと切支丹弾圧が島原の乱(1637-1638)の遠因となった。この乱の責任を問われた堅高は改易・切腹に処されたが、広高自身の治世は比較的穏やかで、むしろ治水・干拓などの開発事業で知られる。刀剣については、豊臣政権の外交奉行として名刀を外交贈答品として扱う機会が多く、南蛮貿易との接点から異国の刀剣技術にも造詣が深かったと伝わる。
所持した刀剣
- 外交贈答用の備前伝の太刀(豊臣政権の奉行として扱った名刀)
- 南蛮刀(ポルトガル・スペインとの交易で入手した異国の剣)