※画像はイメージです。諏訪頼重
Suwa Yorishige
武田晴信(信玄)の諏訪侵攻に敗れ、東光寺で自刃した信濃諏訪の領主
解説
諏訪頼重(すわ よりしげ)は、信濃国諏訪郡を治めた諏訪氏の惣領である。永正13年(1516年)に諏訪頼隆の嫡男として生まれ、天文11年7月(1542年8月)に没した。没日は21日とされるが、『神使御頭之日記』では20日とする。
生涯
幼少期には諏訪大社の大祝を務め、のちに弟の頼高へ職を譲った。享禄3年(1530年)に父が死去し、祖父・頼満から後継者に指名され、天文8年(1539年)の頼満の死で家督を継いだ。天文9年(1540年)11月には武田信虎の三女・禰々を妻に迎え、武田家と婚姻関係を結んだ。天文11年(1542年)には嫡男・寅王が生まれている。
主要戦歴
天文10年(1541年)5月、武田信虎・村上義清と連携して小県郡へ侵攻し、海野平の戦いで海野棟綱を破って上野国へ追いやった。同年6月に信虎が駿河へ追放され、嫡男の晴信(信玄)が国主となった。
諏訪侵攻と自刃
棟綱は関東管領の上杉憲政に支援を求めた。頼重は武田・村上に無断で憲政と単独講和し、所領を分けたとされ、晴信はこの盟約違反を理由に諏訪へ侵攻したと考えられている。晴信は高遠頼継ら反諏訪勢と結び、上原城を攻めた。天文11年7月、頼重は桑原城で降伏し、弟の頼高とともに甲府へ連行され、東光寺で自刃した。これにより諏訪惣領家は滅亡した。
逸話
辞世の句として「おのつから かれはてにけり 草のはの 主あらはこそ 又もむすはめ」が伝わる。
後世評価
その後、武田氏は一族に諏訪氏の名跡を継がせたが、勝頼が名乗った諏訪氏は名目的なものとされ、系図では歴代に数えられていない。頼重はNHK大河ドラマ『風林火山』(2007年)などの作品にも登場する。