※画像はイメージです。蘇我馬子
Soga no Umako
大臣
解説
蘇我氏の全盛を築いた大臣
蘇我馬子は欽明天皇十二年(551年)頃に、大臣・蘇我稲目の子として生まれた。敏達天皇元年(572年)に大臣(おおおみ)となり、以後、敏達・用明・崇峻・推古の四代にわたって大臣の座にあった。半世紀を超える在職期間を通じて、馬子は大王家と姻戚関係を重ね、蘇我氏を国政の中枢に据えた。推古天皇三十四年五月二十日(626年6月19日)に没している。
崇仏と丁未の乱
馬子は父・稲目以来の崇仏の立場を継いだ。敏達天皇十三年(584年)には百済からもたらされた仏像を得て、修行者を求めて三人の尼を得度させている。翌年には排仏派による寺院の破却が行われ、崇仏と排仏の対立は先鋭化した。用明天皇二年(587年)、用明天皇が仏法への帰依を望んだことをめぐり、これを支持する馬子と反発する物部守屋が決裂する。同年七月、馬子は諸皇子と有力豪族を糾合して大軍を起こし、守屋を射殺して勝利を収めた。この丁未の乱によって物部氏は没落し、蘇我氏の優位が決定的となった。
崇峻天皇の擁立と暗殺
用明天皇二年(587年)八月、馬子は泊瀬部皇子を推して即位させた(崇峻天皇)。しかし崇峻天皇五年(592年)十一月、天皇が馬子への不満を露わにしたのち、馬子は東漢直駒に命じて天皇を殺害させた。臣下が天皇を弑逆した事件として日本史上ほとんど例を見ないもので、当時の蘇我氏の権力が王権を凌ぐ域に達していたことを示している。
推古朝の共同統治
崇峻天皇の死後、馬子は炊屋姫を即位させた。日本史上初の女帝・推古天皇である。以後、馬子は皇太子となった厩戸皇子(聖徳太子)と協調して国政を担い、冠位十二階(603年)、十七条憲法(604年)といった制度が整えられた。推古天皇二十八年(620年)には、厩戸皇子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。国家の由来を文字によって記録する試みであり、日本における修史事業の先駆と位置づけられる。
飛鳥寺と権勢の頂点
崇峻天皇元年に造営が始まった飛鳥寺(法興寺)は、推古天皇四年(596年)に蘇我氏の氏寺として完成した。塔を中心に三つの金堂を配する伽藍を備えた、日本最初の本格的寺院である。仏教の受容を主導した馬子にとって、飛鳥寺は信仰の場であると同時に一族の権威を可視化する装置でもあった。推古天皇三十二年(624年)、馬子は自らの本拠にゆかりの深い葛城県の割譲を朝廷に求めたが、推古天皇はこれを拒絶した。天皇と蘇我氏の関係が、必ずしも一方的な従属ではなかったことを示す記録である。
石舞台古墳と飛鳥の刀剣
馬子の墓は『日本書紀』に桃原墓と記され、奈良県明日香村島庄の石舞台古墳がこれに比定されている。巨大な横穴式石室が露出した古墳で、七世紀前半の築造と考えられている。馬子個人の佩刀を伝える記録は残らないが、彼が生きた飛鳥時代の刀剣は反りを持たない直刀であり、同時代の遺例としては四天王寺に伝わる丙子椒林剣・七星剣が知られる。日本刀に特徴的な弯刀の姿が現れるのは平安時代後期以降のことで、馬子の時代の刀剣はなお大陸の直刀の系譜に連なるものであった。子は蝦夷、孫は入鹿。皇極天皇四年(645年)の乙巳の変によって蘇我氏本宗家は滅び、馬子が築いた権勢は三代で終わりを迎えた。