※画像はイメージです。島津歳久
Shimazu Toshihisa
島津四兄弟の三男——豊臣秀吉に最後まで抵抗し、義に殉じた薩摩の猛将
解説
島津四兄弟の智将にして猛将
天文六年(一五三七年)、薩摩国に生まれた島津歳久は、義久・義弘・家久とともに「島津四兄弟」を構成する三男である。九州統一を目指した島津家の怒涛の進軍において、歳久は軍師的な役割を担い、策謀と武勇の両面で兄弟を支えた。冷静沈着な判断力と激しい闘争心を兼ね備えた歳久は、島津家中でも特に個性際立つ武将として知られる。
九州制覇への貢献
天正年間(一五七三〜九二年)、島津家は歳久ら四兄弟の結束のもと九州の諸大名を次々と圧倒した。天正六年(一五七八年)の「耳川の戦い」では大友宗麟率いる豊後軍を壊滅させ、天正十二年(一五八四年)の「沖田畷の戦い」では龍造寺隆信を討ち取るなど、九州の覇権を確立する一連の戦役で歳久は重要な戦功を挙げた。その戦略眼と決断力は、兄・義弘の猛勇と並んで島津軍を支えた柱であった。
豊臣秀吉への抵抗——最後まで屈しなかった誇り
天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉の九州征伐によって島津家は降伏を余儀なくされた。兄・義久が秀吉に恭順の姿勢を示したのに対し、歳久は最後まで抵抗の意志を捨てなかった。秀吉への謁見を繰り返し拒んだ歳久は、朝鮮出兵(文禄の役)において参陣を求められても病と称して従わなかった。秀吉の怒りを買った歳久は追討令を下され、天正二十年(一五九二年)、義久からの討伐軍が迫る中、串木野(現在の鹿児島県いちき串木野市)にて自刃して果てた。享年五十六。秀吉への不屈の抵抗を貫いたその最期は、武士の義と誇りの体現として後世に語り継がれた。
薩摩の刀剣文化と歳久
島津家の本拠・薩摩国は独自の刀剣文化を育んだ土地である。波平刀工群(なみのひら)は薩摩を代表する刀工一派で、平安時代から明治まで脈々と続く長大な歴史を持つ。歳久が愛用した刀剣は、この波平派の力強い実戦刀であったとされる。南九州の素直な地鉄に豪壮な刃文を持つ波平の刀は、九州統一の戦場を駆け抜けた島津兄弟の武威にふさわしい逸品であった。また、九州征伐後に入手した刀工の作品も帯刀したとされ、歳久の刀剣への見識は島津家中でも高く評価されていた。
所持した刀剣
- 波平の太刀(薩摩島津家の実戦刀)——薩摩を代表する刀工一派・波平派が鍛えた力強い実戦太刀。九州統一の戦場を駆け抜け、最後まで豊臣秀吉への抵抗を貫いた島津歳久の不屈の魂を宿す薩摩の名品
- 薩摩の打刀——九州制覇の激戦を経て歳久が帯びた実用的な打刀。南九州の素直な地鉄に豪壮な乱れ刃文を持つ薩摩刀は、義に殉じた武将の気骨と、島津家中随一の誇り高き精神を体現する