※画像はイメージです。戦国〜江戸初期1570-1633
佐竹義宣
Satake Yoshinobu
家康に「律儀者」と評された常陸の大名——54万石から出羽秋田20万石へ
解説
佐竹義宣(さたけ よしのぶ、元亀元年〈1570年〉-寛永10年〈1633年〉)は、常陸国を治めた戦国大名・佐竹義重の子で、のちに出羽久保田藩の初代藩主となった人物である。
家督相続
父・義重の隠居により家督を継いだ。時期には諸説あるが、天正17年(1589年)正月説が有力とされる。
関ヶ原と減転封
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、上杉景勝と密約を交わしたとされる。しかし佐竹家中で意思統一ができず、積極的には参戦しなかった。8月25日には水戸城へ引き上げている。戦後、父・義重の説得を受け、慶長7年(1602年)4月に徳川家康へ謝罪した。
同年5月、常陸54万石から出羽20万石への減転封を命じられ、9月17日に土崎湊城へ入った。翌慶長8年(1603年)からは久保田城を本城としている。
逸話と評価
石田三成が襲撃を受けた際、義宣がこれを救出したと伝えられる。家康は「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者は見たことがない」と評したとされる。
刀剣との関わり
本項では、確認できた典拠に義宣個人の愛刀や所持刀の記述がなかったため、特定の刀剣については記さない。