※画像はイメージです。斎藤義龍
Saito Yoshitatsu
美濃の大名・父・道三を討った反骨の将
解説
生涯と出自
斎藤義龍(さいとう よしたつ)は享禄2年(1529年)、美濃国の戦国大名・斎藤道三の嫡男として生まれた。幼名は斎藤高政と称し、後に室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を受けて「義龍」と名乗った。また、幕府から一色氏の家督を認められたことで「一色義龍」とも称した。母は小見の方(明智氏の出)で、美濃の大名家の嫡男として順当な薫陶を受けて育った。
父との決裂と長良川の戦い
道三には義龍の他に次男・孫四郎、三男・喜平次らの弟がいた。道三は晩年、正室の子である孫四郎を溺愛し、嫡子の地位を義龍から奪う意向を持つようになった。これを察知した義龍は、弘治元年(1555年)に弟の孫四郎・喜平次の二人を招いて謀殺し、家中の反道三派を結集させた。
翌弘治2年(1556年)4月、道三と義龍はついに正面から軍事衝突した。この長良川の戦いで義龍は圧倒的な兵力差をもって父を圧倒し、道三は長良川河畔で討たれた。父を討つという異例の事態は、道三自身が「下克上」の体現者であったことと対比して語られ、義龍もまた戦国の非情を体現した人物として後世に記憶された。
美濃統治と信長への対抗
父を討った後、義龍は速やかに美濃国の統治体制を整えた。「六人衆」と呼ばれる有能な側近を登用して宿老合議制を導入し、貫高制に基づく知行安堵を積極的に進めることで、長年の内乱で混乱した所領問題を整理した。幕府からは御相伴衆・治部大輔・左京大夫に任じられ、美濃の名家としての家格も確立した。
一方、隣国尾張の織田信長とは一貫して対立した。義龍は領内への調略・暗殺を仕掛けるなど謀略戦を展開し、信長の再三の美濃侵攻を悉く撃退した。信長が義龍の存命中に美濃を制圧できなかった事実は、義龍の統治・軍事双方の力量を示している。「義龍が早死にさえしなければ、信長の美濃攻略は倍以上の時間がかかっていた」と後世の研究者が評するほど、その統治は盤石であった。
刀剣と武具
美濃国は古来から「美濃伝」として知られる刀剣産地であり、義龍が統治した時代にも関の刀工たちが活躍していた。美濃伝の刀剣は「志津三郎兼氏」を祖とするとされ、実用的な切れ味と堅牢さで知られた。義龍が美濃の大名として有した刀剣もこうした美濃伝の作品であったと考えられ、大名家の権威を示す名刀が蔵に収められていたことは想像に難くない。
後世の評価
永禄4年(1561年)5月、義龍は持病の悪化により33歳の若さで急逝した。この早世が信長に美濃攻略の好機を与えたとされる。父殺しという行為から「因果応報」として語られることもあったが、近年の研究では、義龍を美濃国を安定的に統治した有能な大名として正当に評価する視点が主流となっている。
所持した刀剣
- 美濃伝の太刀(関鍛冶・美濃国伝来)