※画像はイメージです。奥平信昌
Okudaira Nobumasa
大名
解説
三河の国衆・奥平氏
奥平信昌は弘治元年(1555年)、奥平定能(貞能)の子として生まれた。奥平氏は三河の作手を本拠とする国衆で、東は武田、西は徳川という二大勢力の狭間にあって、たびたび去就を変えざるを得ない立場にあった。信昌の生涯は、この境目の国衆が一つの決断によって譜代同然の家格を得るに至る過程そのものである。
徳川への帰参と人質の処刑
元亀四年(1573年)頃、織田信長の進言を受けた徳川家康は、奥平氏を味方に引き入れるため、信昌に長女・亀姫との婚約と所領の割譲を提示した。信昌はこれを受け、武田方へ人質として送っていた妻おふうと離縁したうえで徳川に帰参する。武田勝頼はこの離反への報復として、信昌の元妻と弟を含む三人の人質を処刑した。奥平氏の徳川方への転身は、こうした犠牲の上に成り立っていた。
長篠城の籠城戦
天正三年(1575年)五月、武田勝頼は一万五千の大軍をもって長篠城を攻囲した。城主となっていた信昌は寡兵で守りを固め、家臣・鳥居強右衛門を包囲網の外へ送り出して岡崎の家康・信長へ援軍を要請させた。強右衛門が命を賭して果たしたこの使命により援軍到来の確報がもたらされ、城兵の士気は保たれた。信昌は織田・徳川連合軍が到着するまで武田軍の猛攻を凌ぎきり、同月二十一日の設楽原における決戦で連合軍が勝利する。長篠城の持ちこたえがなければ、この決戦の構図は成立しなかった。
大般若長光の拝領
長篠の戦功により、信昌は信長から「信」の一字を与えられて信昌と改名し、家康からは名物「大般若長光」を拝領した。この太刀は備前長船の刀工・長光の作で、刃長七三・六センチ、反り二・九センチ。室町時代に銭六百貫という破格の代付がなされたことから、全六百巻の大般若経になぞらえて「大般若長光」と号された。伝来は足利将軍家に始まり、足利義輝から三好長慶へ下賜され、のち織田信長の手に渡り、姉川の戦いの功によって徳川家康へ贈られ、そして長篠の戦功で信昌に与えられた。天下人の間を渡り歩いた名物が、一人の城将の籠城の功に対して下された点に、この籠城戦の評価の高さがうかがえる。太刀はのちに信昌の末子で家康の養子となった松平忠明の家(忍藩)に伝来し、昭和二十六年(1951年)六月九日に国宝に指定され、現在は東京国立博物館が所蔵する。
亀姫との婚姻と加増
天正四年(1576年)七月、家康の長女・亀姫が信昌に嫁いだ。徳川一門との婚姻により奥平氏の家格は大きく上がる。天正十八年(1590年)の関東移封に伴い上野甘楽郡宮崎に三万石を与えられ、慶長六年(1601年)には美濃加納十万石へ加増転封された。
関ヶ原・京都所司代と晩年
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いに参陣し、一族の者を小早川秀秋の陣へ軍監として送り込んだ。戦後は京都所司代を務め、西軍の外交僧・安国寺恵瓊を捕縛している。慶長七年(1602年)に加納で隠居し、三男・忠政に家督を譲った。慶長二十年三月十四日(1615年4月11日)死去、享年六十一。子には長男・家昌、松平家治、三男・忠政、末子の松平忠明らがいる。長篠城を守り抜いた武将として、また国宝「大般若長光」の伝来に名を刻む人物として、信昌の名は日本刀の歴史のなかにも確かな位置を占めている。
所持した刀剣
- 大般若長光(長篠の戦功により徳川家康から拝領した備前長船長光の太刀。刃長七三・六センチ、反り二・九センチ。室町時代に銭六百貫という破格の代付がなされ、大般若経六百巻になぞらえて号された。足利将軍家から足利義輝・三好長慶・織田信長・徳川家康を経て信昌に渡り、昭和二十六年に国宝指定、現在は東京国立博物館が所蔵する)