※画像はイメージです。小田氏治
Oda Ujiharu
居城を9度奪われ8度奪い返した「常陸の不死鳥」
解説
小田氏治(おだ うじはる)は、常陸国の戦国大名で小田氏の当主である。生年は天文3年(1534年)説と享禄4年(1531年)説があり、没年は慶長6年閏11月13日(1602年1月6日)とされる。
家督相続
天文17年(1548年)7月、父・小田政治の死去により家督を継いだ。初陣は天文15年(1546年)の唐ヶ崎の戦いとされ、この戦いで小田勢は敗れている。
主要な戦い
弘治2年(1556年)の海老ヶ島の戦い(諸説あり)では結城政勝・北条氏の連合軍に敗れ、小田城を失って土浦城へ退いたが、同年8月に小田城へ戻った。永禄4年(1561年)には上杉謙信の小田原攻めに加わっている。永禄6年(1563年)の三村の戦いでは大掾貞国を破った。
永禄7年(1564年)の山王堂の戦い(諸説あり)では謙信に大敗して小田城が落城し、氏治は藤沢城へ逃れたが、永禄8年(1565年)12月に佐竹義廉を破って小田城を取り戻した。永禄12年(1569年)5月には佐竹義重に勝利したものの、同年の手這坂の戦いで太田資正らに大敗し、小田城を失う転機となった。その後も土浦城の失陥、手子生城をめぐる攻防が続いた。
小田氏の終わり
天正18年(1590年)、小田原征伐に参陣せず佐竹氏に反旗を翻したとして所領を没収され、大名としての小田氏は滅亡した。翌年8月、会津で浅野長政を通じて謝罪し、結城秀康の客分として300石を与えられたという。
逸話と後世評価
小田城を9度奪われ、8度奪い返したことから「常陸の不死鳥」と呼ばれる。城を何度も失ったため「戦国最弱」と評されることが多い。一方、宿敵の佐竹義昭は上杉謙信宛の書状で、氏治には優れた才覚があり譜代の家臣も多いと評価している。土浦市の法雲寺には生前に描かれたとされる肖像画があり、茨城県指定文化財である。画中には猫が描かれている。