※画像はイメージです。飯富虎昌
Obu Toramasa
武田家宿老・赤備えの祖
解説
生涯
永正元年(1504年)、甲斐国の武田氏譜代の家老の家に生まれた。武田信虎の代から仕え、天文10年(1541年)には板垣信方らとともに信虎を駿河へ追放し、嫡男・晴信(後の信玄)を当主に擁立した中心人物の一人とされる。
主要戦歴
上田原の戦いで宿老の板垣信方・甘利虎泰が相次いで戦死した後、武田軍団の中核を担う存在となった。信濃・内山城の守備にあたった際には、約800の手勢で8000ともいわれる敵軍を撃退したと伝わり、その勇猛さから「甲山の猛虎」と称された。
逸話(赤備えの祖)
具足・旗指物・馬具までを赤一色で統一した軍装「赤備え」の創始者として知られる。弟(一説に甥)の山県昌景が後にこの家臣団と赤備えを引き継ぎ、武田軍随一の精鋭部隊として広く知られるようになった。
義信事件と最期
永禄8年(1565年)、信玄の嫡男・義信が対今川氏の外交方針をめぐり信玄と対立し謀反を企てたとされる「義信事件」が起こると、その傅役であった虎昌はこれに連座し、責任を負う形で自害した。享年62。信玄による粛清であったとも、虎昌が義信をかばって自ら罪をかぶったとも伝わり、真相には諸説ある。
後世評価
武田軍の精強さを象徴する「赤備え」の創始者として、その軍装は弟・山県昌景に受け継がれた。信虎・信玄二代に仕えた宿老として、また武田家中随一の猛将として、今日も「甲山の猛虎」の異名とともに語り継がれている。