※画像はイメージです。戦国時代中期1522-1575
内藤昌豊
Naito Masatoyo
武田四天王の一人・甲州流軍学の名将
解説
内藤昌豊(1522-1575)は、武田信玄・勝頼に仕えた「武田四天王」の一人であり、山県昌景・馬場信春・高坂昌信とともに武田軍団の精鋭を率いた名将である。上野国(現在の群馬県)の攻略において数々の武功を挙げ、箕輪城主として関東における武田氏の支配の要となった。
昌豊は信玄の薫陶を受けながら頭角を現し、甲州流軍学の実践者として戦場での指揮に優れた手腕を発揮した。川中島の戦いをはじめとする武田軍の主要な戦役に参加し、その用兵の妙は諸将からも高く評価された。箕輪城(現在の高崎市)を本拠として上野経営に当たり、この地域の武田支配を盤石なものとした。
長篠の戦い(1575年)は昌豊の最期となった。設楽原において織田・徳川連合軍の鉄砲隊と対峙した武田軍は大敗を喫したが、昌豊は最後まで戦場に踏みとどまり、撤退する武田軍の殿(しんがり)を務めながら壮絶な戦死を遂げた。「内藤修理は武田の重宝なり」と評された昌豊の死は、武田家にとって取り返しのつかない損失であった。
刀剣との関わりでは、昌豊は甲州(山梨)・信州(長野)の刀工との縁が深く、武田軍団の将として優れた刀剣を所持したと伝えられる。甲州流軍学を体得した武将の標として、その佩刀は実戦的な日本刀の美を体現していた。内藤昌豊の生涯は、武田軍団の栄光と滅亡を象徴する物語として、今日でも多くの人々に語り継がれている。
所持した刀剣
- 武田家伝来の甲州刀
- 長篠の陣刀