※画像はイメージです。妙印尼
Myōinni
71歳で金山城・館林城の防衛を指揮した戦国最高齢級の女性指揮官
解説
妙印尼(みょういんに、俗名・赤井輝子。永正11年〈1514年〉頃-文禄3年〈1594年〉)は、上野国館林城主・赤井重秀の娘として生まれ、新田金山城主・由良成繁に嫁いだ。由良氏は新田金山城を本拠に上野国東部で勢力を築いた国衆であり、成繁の代には後北条氏と結びつつも独立性を保つ微妙な立場にあった。妙印尼は由良国繁・長尾顕長ら子女を産み、天正6年(1578年)の成繁の死後は落飾して妙印尼と号した。
生涯最大の事績は、天正12年(1584年)、71歳の時に見せた金山城・館林城の防衛指揮である。この年、後北条氏の当主・北条氏直は両城の「借用」を由良家に要求した。当時、嫡男・国繁と次男・長尾顕長は北条氏直のもとへ伺候しており、いったんはこの要求を受け入れる姿勢を見せたが、これに反発した由良家中の家臣団は妙印尼を主将に推し、佐竹義重・佐野宗綱ら反北条勢力と結んで金山城に籠城する道を選んだ。北条方はこれを謀反とみなし、国繁・長尾顕長の両名を小田原に抑留した。この籠城は、豊臣秀吉による小田原征伐(天正18年・1590年)に先立つこと6年、関東において後北条氏の支配に武力で抵抗した数少ない事例のひとつでもあった。
妙印尼は自ら家臣を前に演説して家中を結束させ、約3000の兵を率いたとも伝わる中、北条方の武将・富岡秀長らの攻撃を相手に籠城戦を指揮したと伝わる。戦いは翌年まで続いたのち和睦に至り、金山・館林両城は北条方への即時明け渡しを免れた。この抵抗はのちに豊臣秀吉から高く評価され、秀吉は妙印尼に朱印状を与えて常陸国牛久の所領を認めたと伝わる。妙印尼は晩年、子・国繁とともに牛久へ移り、その地で没した。享年81。
70歳を超えてなお自ら城の指揮を執ったとされる妙印尼の事績は、戦国時代の女性が単なる後方支援にとどまらず、家の存亡を賭けた実戦の指揮官としても機能し得たことを示す稀有な事例として知られる。夫の死後に出家した尼僧の身でありながら陣頭に立ったという点でも異色であり、女性が城主・指揮官として記録に残る数少ない事例のひとつに数えられている。