※画像はイメージです。戦国時代?–1566
三村家親
Mimura Iechika
解説
三村家親(みむらいえちか、生年不詳〜永禄9年2月5日〈1566年2月24日〉)は、備中国の戦国大名。三村宗親の子で、備中成羽の鶴首城(成羽城)を居城とし、のちに備中松山城(現在の岡山県高梁市)へ本拠を移した。
尼子方の荘氏との勢力争いに行き詰まると毛利元就を頼って毛利氏に属し、備中で勢力を広げて備前・美作にも攻め入った。元就は家親を高く評価し、「備中一国はこれで毛利のものとなったも同然」という趣旨の言葉を述べて喜んだと伝わる。永禄4年(1561年)には尼子方の荘高資を破って備中松山に進出し、備中の中心勢力となった。
永禄9年(1566年)2月5日、美作国久米郡の興善寺で家臣と評定中に、宇喜多直家の命を受けた遠藤兄弟(秀清・俊通)によって火縄銃で暗殺された。当時としても珍しい鉄砲による暗殺であった。享年不詳。長男の元祐はすでに荘氏の養子となっていたため、次男の元親が跡を継いだが、元親も1575年に毛利軍に敗れて自害し、三村氏は滅亡した。