※画像はイメージです。sengoku1541–1579
波多野秀治
Hatano Hideharu
解説
波多野秀治(はたのひではる、1541年〜天正7年6月8日〈1579年7月2日〉)は、丹波国の戦国大名で、波多野氏の最後の当主。波多野晴通の子で、八上城(現兵庫県丹波篠山市)を本拠とした。
父の死後、三好長慶に仕えていた波多野氏の当主として台頭した秀治は、永禄8年(1565年)の長慶没後に独立し、丹波国中部を支配する戦国大名となった。元亀元年(1570年)頃に織田信長に従属し、一時は信長陣営に組み込まれたが、天正3年(1575年)に明智光秀による丹波平定が本格化すると、翌天正4年(1576年)に突如として反旗を翻した。光秀軍の黒井城攻めを撃退するなど猛烈な抵抗を見せ、光秀を大いに苦しめた。
天正6年(1578年)から八上城は光秀軍による大規模な包囲を受け、秀治は兵糧不足の中でも約1年半にわたって籠城を続けた。しかし天正7年(1579年)6月、裏切りにより弟の波多野秀尚・秀香とともに捕縛され、安土城に送られた。信長は秀治・秀尚を磔刑に処した(6月8日)。秀治の辞世は「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高砂の松に残して」と伝わる。
この処刑を知った八上城の残兵は、光秀の母(または叔母とも)を磔に処したとされ、この仕打ちが光秀の信長への恨みを深め、天正10年(1582年)の本能寺の変の遠因になったとも語り継がれている。