※画像はイメージです。高坂昌信
Kōsaka Masanobu
武田四名臣・甲斐の謙信と呼ばれた知将
解説
高坂昌信(1527-1578)は、武田信玄に仕えた武田四名臣の一人として名高い戦国武将であり、「甲斐の謙信」とも称された知略に優れた将帥である。本名は春日虎綱(かすが とらつな)といい、高坂弾正の通称でも知られる。武田信玄の没後も跡継ぎの勝頼を補佐し続けたが、長篠の戦いの三年後、天正6年(1578年)に病没した。
昌信は甲斐国(現在の山梨県)の国人の子として生まれ、若年より武田信玄に仕えた。信玄の小姓として頭角を現し、やがて武田軍の北信濃方面を担う重臣へと成長した。特に川中島の戦い(1553-1564年の五度の合戦)では、上杉謙信率いる越後軍と激しく交戦し、昌信の知略が遺憾なく発揮された。なかでも第四次川中島の戦い(1561年)では、武田軍が啄木鳥戦法を実施する中、昌信は妻女山から退いてくる上杉軍の別働隊を川中島で迎え撃つ本隊に属した重要な役割を果たした。
昌信の最も重要な役割の一つは、北信濃の海津城(現在の長野県松代町)城主として上杉謙信と対峙し続けたことである。海津城は武田氏の北信濃支配の要であり、昌信はここを20年以上にわたって守り続けた。その守備は堅固で、上杉謙信も容易には落とせなかった。信玄から篤い信頼を受けた昌信は、「甲陽軍鑑」の著者の一人(または原書者)とも伝えられており、武田氏の軍法・戦術を後世に伝える重要な役割も果たした。
日本刀との関わりにおいて、昌信は武田信玄の側近中の側近として、数多くの名刀の贈答に立ち会ってきた。海津城主として北信濃を統治した昌信は、善光寺平を中心とする地域の刀鍛冶の伝統とも深く関わり、地域の鍛冶師たちを庇護したと伝えられる。また「甲陽軍鑑」には刀剣に関する記述も多く、武田流の戦場における刀の使い方や名刀についての記録が残されている。昌信が愛用した刀は海津城の宝物として後世に伝えられ、松代藩(真田氏)の重要な文化財となった。武田四名臣の中でも知略と文武両道で知られた昌信の生涯は、戦国武将の理想像を体現するものである。
所持した刀剣
- 海津城伝来の名刀(松代藩家宝)
- 武田流戦場刀・甲陽軍鑑に記録された業物