※画像はイメージです。幕末~明治1838-1877
桐野利秋(中村半次郎)
Kirino Toshiaki (Nakamura Hanjirō)
幕末四大人斬りの一人・陸軍少将
解説
生涯
天保9年(1838年)、薩摩国鹿児島の城下士・中村与右衛門(桐野兼秋とも)の三男として生まれ、初名を中村半次郎といった。貧しい家に生まれ、系統だった学問や武芸の師を持たなかったとされるが、独学で剣術を修め、達人の域に達したと伝わる。
示現流剣術
剣術は薬丸自顕流の薬丸兼義、あるいは小示現流の伊集院氏の門下で学んだとする説があり、正確な師系は判然としないが、薩摩藩士に広く行われた自顕流系の剣術を独力で極めたとされる。
幕末の活動から西南戦争まで
幕末には京都で尊王攘夷・討幕運動に従事し、西郷隆盛に近侍して行動をともにした。戊辰戦争では東征大総督府の参謀を務め、会津若松城の受け取り役を担った。明治政府では陸軍少将・熊本鎮台司令長官まで昇ったが、明治6年(1873年)の政変で西郷とともに下野し、鹿児島へ帰郷した。明治10年(1877年)の西南戦争では西郷軍の指揮官の一人として四番大隊を率いて戦い、同年9月24日、最後の激戦地・城山で額を撃ち抜かれて戦死した。享年40。
刀剣にまつわる逸話
戊辰戦争で会津若松城が開城した際、旧藩主・松平容保から金銀造りの拵えを施した大小の刀を贈られたと伝わる。降伏した敵将から刀を贈られたこの逸話は、彼の武名と当時の武家社会における刀剣の重みを物語るものとして語り継がれている。
後世評価
初名の中村半次郎として「人斬り半次郎」の異名で恐れられた一方、西郷隆盛の側近として維新の激動を生き抜き、最後は西南戦争で西郷とともに散った生涯から、幕末維新史を象徴する人物の一人として今日も広く語られている。