※画像はイメージです。戦国時代1547-1581
吉川経家
Kikkawa Tsuneie
鳥取城に籠城し、全責任を負って切腹した毛利方の城将
解説
吉川経家(きっかわ つねいえ、天文16年〈1547年〉-天正9年〈1581年〉)は、毛利氏に属した武将で、羽柴秀吉による鳥取城攻め(鳥取の渇え殺し)で城将を務めた人物である。
鳥取城への入城
天正8年(1580年)、羽柴秀吉の因幡侵攻により、鳥取城主の山名豊国が降伏した。その後、城内の毛利方が経家を城番として迎え入れた。経家は入城して約4か月にわたり籠城した。
籠城戦
入城時の守備兵は約4,000人とされる。秀吉は約2万の軍勢で城を包囲した。兵糧が極度に不足し、城内では餓死者の肉を食べ合うほどの状況に至ったと伝えられる。
自害
天正9年(1581年)10月25日、経家は家臣と盃別れを交わしたのち切腹した。「内々の稽古もできなかったので、無調法な切り方になろう」と述べたと伝わる。介錯は静間源兵衛が務めた。辞世の句は「武士の取り伝えたる梓弓 かえるやもとの栖なるらん」。
後世の評価
秀吉は経家の首を見て「哀れなる義士かな」と涙したと伝わり、織田信長も丁重に葬ったとされる。
刀剣との関わり
確認できた典拠に経家の刀剣に関する記述はなく、特定の刀剣は記さない。