※画像はイメージです。伊東義祐
Itō Yoshisuke
日向国の戦国大名・伊東四十八城の主
解説
生涯と出自
伊東義祐(いとう よしすけ)は永正10年(1513年)頃、日向国の戦国大名・伊東尹祐の子として生まれた。伊東氏は日向国(現在の宮崎県)を本拠とする国人領主の家柄で、義祐は一族内の権力闘争や父の死を経て、天文5年(1536年)に伊東氏第11代当主として家督を継いだ。幼少より波乱に満ちた権力闘争の中で生き延び、当主として日向国の統一と南九州への覇権確立を目指した。
伊東四十八城の確立と最盛期
義祐の治世において伊東氏は飛躍的に発展した。永禄年間(1558–1570年)には日向国の大半を掌握し、「伊東四十八城」と称される支城網を整備した。永禄11年(1568年)には2万の大軍を率いて島津氏が守る飫肥城を5ヶ月にわたり包囲し、島津貴久との和睦の末に飫肥を奪取することに成功した。この時期の伊東氏の勢力は最盛期を迎え、義祐は九州南部の有力大名として名を馳せた。
木崎原の戦いと没落
しかし元亀3年(1572年)、義祐は加久藤城(現在の宮崎県えびの市)への攻撃を決定した。島津義弘率いるわずか300の手勢に対して3000の大軍を送り込んだが、この木崎原の戦いで有力家臣を多数失う惨敗を喫した。「島津義弘の生涯最大の武勲」と称されるこの戦いで伊東氏は決定的な打撃を受け、以後、家臣の離反が相次いで支城を次々と失っていった。
豊後への流浪
天正5年(1577年)、伊東義祐はついに日向国を捨てることを決意し、家臣・重臣らを連れて豊後国の大友宗麟を頼って落ち延びた。この「伊東崩れ」と称される出来事は戦国九州の転換点となり、日向国の制圧を進める島津氏の覇道を決定的に後押しした。大友氏の元で再起を期したが、天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏も島津氏に大敗し、義祐の復帰の望みは遠のいた。その後、伊予国を経て堺に移り、天正13年(1585年)に没した。享年72歳。
刀剣との関わり
義祐の愛刀として「太刀 無銘 来国長」が伝わっている。来国長は南北朝時代、山城の来派・中島来一門に連なるとされる刀工で、直刃調の刃文を特徴とする太刀を残したという。戦国大名として九州南部を統治した義祐が、畿内の刀剣文化に連なる太刀を所持していたと伝わることは、伊東氏の文化的教養の高さを示す逸話として語られている。
後世の評価
木崎原の戦いでの敗北と伊東崩れは、薩摩の島津氏台頭を語る上で欠かせない歴史的出来事である。義祐の72年に及ぶ生涯は、戦国時代の九州における栄枯盛衰を象徴するものとして語り継がれており、宮崎県内には伊東氏ゆかりの史跡が今も多く残されている。
所持した刀剣
- 太刀 無銘 来国長(日向国伊東氏伝来)