※画像はイメージです。平安時代末期1152年-1184年
今井兼平
Imai Kanehira
木曽義仲の乳母子として仕えた「義仲四天王」の一人——粟津で主君と共に散った忠臣
解説
生涯
今井兼平は仁平二年(一一五二年)、信濃国の武士・中原兼遠の子として生まれた。中原兼遠は木曽谷で源義仲(木曽義仲)を養育した傅役でもあり、兼平は義仲と乳兄弟として育てられ、生涯にわたり側近として仕えることになった。
木曽義仲との関係
兼平は兄の樋口兼光ら今井・樋口一族とともに「義仲四天王」の一人に数えられ、義仲挙兵以来、常にその側近くにあって軍事面を支えたと伝わる。
主要戦歴
治承・寿永の乱では、横田河原の戦い(一一八一年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦い(一一八三年)など義仲軍の主要な合戦のほとんどに従軍し、平家軍を破る戦功をあげた。同年七月の義仲入京、および法住寺合戦にも参加した。
粟津での最期
寿永三年正月(一一八四年)、源範頼・源義経の軍勢に追われた義仲は、兼平とともに近江国粟津まで落ち延びた。深田に馬を取られた義仲が討ち取られたのを見届けた兼平は、「日本一の剛の者の自害する手本」と叫び、太刀の切っ先を口に含んで馬から真っ逆さまに飛び降り、貫かれて自害したと『平家物語』は伝える。享年三十三。
後世評価
今井兼平の最期は、主君・義仲への忠義を体現する場面として『平家物語』「木曾の最期」の白眉とされ、後世の軍記物・演劇でも繰り返し取り上げられる、忠臣像の代表例として知られている。