※画像はイメージです。井伊直弼
Ii Naosuke
幕末の大老・安政の大獄と桜田門外の変で歴史に刻まれた彦根藩主
解説
井伊直弼(1815-1860)は、近江彦根藩(現在の滋賀県彦根市)の藩主であり、江戸幕府の大老として幕末の政局を動かした人物である。安政5年(1858年)に大老に就任し、日米修好通商条約に調印して開国を断行。反対派を「安政の大獄」で弾圧したが、安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の脱藩浪士に暗殺された。この「桜田門外の変」は幕府権威失墜のきっかけとなった。
直弼は文化12年(1815年)に彦根藩主・井伊直中の14男として生まれた。多くの兄を持つ直弼は長らく後継者候補ではなく、「埋木舎(うもれぎのや)」と呼ばれる侘しい屋敷で約15年間を過ごした。この「埋木舎時代」に茶道(石州流)・能・剣術など多くの芸能・武芸を学び、思想的な深みを養った。嘉永3年(1850年)に藩主となり、安政5年(1858年)には徳川家定の下で大老に就任した。
大老就任後、直弼はアメリカ総領事ハリスとの交渉を経て、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。この独断専行は朝廷・攘夷派から激しい批判を受けた。さらに将軍継嗣問題で一橋慶喜派を押さえ、紀州の徳川慶福(後の家茂)を将軍後継に決定した。反対派の弾圧を「安政の大獄」として実施し、吉田松陰・橋本左内らを処刑した。しかし1860年3月3日、彦根藩邸から登城の途中、桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名に暗殺された。
日本刀との関わりにおいて、直弼は剣術と刀剣文化への造詣が深かった。「埋木舎時代」には居合を学び、後に自ら居合の流派「新心新流」を創始した。彦根藩は江戸時代を通じて剣術の盛んな藩として知られ、直弼も武芸を重んじる藩主であった。桜田門外の変において、多数の水戸浪士が日本刀を用いて警護の彦根藩士と死闘を演じた場面は、幕末の日本刀と武士の最後の死闘として語り継がれている。直弼自身も籠の中から刀を抜いて応戦したと伝わり、日本刀と武士の精神の最後の輝きを体現した人物として評価される。
所持した刀剣
- 彦根藩井伊家伝来・直弼が愛用した名刀(彦根城博物館蔵)
- 桜田門外の変・護衛の彦根藩士が用いた幕末の実戦刀