※画像はイメージです。戦国〜江戸時代初期1540 - 1614
本庄繁長
Honjō Shigenaga
上杉家臣・揚北衆
解説
本庄繁長(ほんじょう しげなが、天文8年・1540年〜慶長19年・1614年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、上杉氏の重臣であり、越後北部の国人衆「揚北衆(あがきたしゅう)」の一人である。越後岩船郡の本庄城主を務め、その武勇から「越後の鬼神」と恐れられた。
家督奪還
繁長は越後の国人・本庄房長の子として生まれた。幼名は千代猪丸。繁長が生まれる直前、父・房長は叔父の小川長資の謀反により居城を奪われ、失意のうちに病没したと伝えられる。やがて成長した繁長は、父の法要が営まれた機会に長資を捕えて自害に追い込み、本庄家の実権を取り戻したという。
上杉謙信への臣従と「本庄繁長の乱」
繁長は上杉謙信(長尾景虎)の家臣となり、川中島の戦いや関東出兵など各地を転戦して武功を挙げた。しかし永禄11年(1568年)、恩賞への不満などから武田信玄の調略に応じて挙兵する。これが「本庄繁長の乱」である。繁長は奮戦したが、最終的に蘆名氏らの仲介により嫡男を人質に出して降伏し、上杉家に帰参した。
御館の乱と晩年
天正6年(1578年)、謙信の死後に勃発した家督争い「御館の乱」では、上杉景勝方に味方した。上杉家の会津・米沢への転封後も重臣として仕え、慶長年間に伊達政宗が侵攻した松川の戦いでは、奇策をもって伊達軍を退けたと伝えられる。
慶長19年(1614年)、74歳で死去。その武勇を称えられ、主君・上杉景勝から「武人八幡」の称号を贈られたと伝わる。波瀾に富んだ生涯を送りながら、越後・出羽に勇名を轟かせた猛将として記憶されている。