※画像はイメージです。平安時代中期893年頃-941年
藤原純友
Fujiwara no Sumitomo
瀬戸内の海賊を率いた反乱者——「西の純友」と呼ばれた承平天慶の乱の首魁
解説
生涯
藤原純友は、寛平五年(八九三年)頃、藤原北家の流れを汲む中級貴族の家に生まれたと伝わる。父・良範を早くに失ったため中央での出世の道が閉ざされ、地方官の伊予掾として伊予国に赴任した。
海賊鎮圧から反乱へ
当初、純友は瀬戸内海で横行していた海賊の鎮圧という任務を忠実に務めていたとされる。しかし任期が明けても都に戻らず伊予国に留まり、承平六年(九三六年)頃には伊予国日振島を拠点として、瀬戸内海沿岸の海賊や地方官を配下に組み込み、自ら海賊行為を指揮する立場へと転じていった。
天慶の乱
純友の勢力は瀬戸内海の海上交通を脅かし、天慶二年(九三九年)以降、朝廷への反乱として本格化した。天慶四年(九四一年)五月には大宰府を攻略するに至ったが、同年、朝廷が派遣した追討軍によって鎮圧され、純友は同年六月に敗死したと伝わる。関東で同時期に起きた平将門の乱と合わせて「承平天慶の乱」と呼ばれ、当時「東の将門、西の純友」と並び称された。
後世評価
藤原純友の乱は、平将門の乱と並んで平安中期の朝廷の統治能力を揺るがした大乱として位置づけられ、地方に武力を蓄えた在地勢力が中央政権に反旗を翻した初期の事例として、日本の武士の成立史においてしばしば言及される。