※画像はイメージです。安宅冬康
Ataka Fuyuyasu
淡路水軍を率いて三好長慶を支えた三好元長の三男——和歌に優れながら兄に誅された
解説
安宅冬康(あたぎ ふゆやす)は、戦国時代の武将で、淡路国の水軍衆・安宅氏の当主である。生年は不明だが、享年39とする説があり、その場合は1526年生まれとなる。永禄7年5月9日(1564年6月17日)に没した。幼名は千々世、通称は神太郎、官位は摂津守。細川晴元の重臣・三好元長の三男で、兄に三好長慶、三好実休、十河一存がいる。淡路の安宅氏の養子となった。
水軍の将として
淡路衆を率い、大阪湾の制圧に関わった。永禄元年(1558年)の北白川の戦いに従軍し、永禄5年(1562年)の久米田の戦いにも従軍した。実休の敗死後は阿波へ退いて再起を図り、同年5月に河内で畠山高政と戦って勝利したとされる(教興寺の戦い)。弟の十河一存、兄の実休、甥の三好義興が相次いで死去したのちは、三好一族の生き残りとして長慶を補佐した。
人物と和歌
穏健で心優しく、人望が高かったとされる。無用な殺生を戒めるため、鈴虫を長慶に贈ったという逸話がある。和歌に優れて「歌道の達者」と呼ばれ、細川幽斎はその歌を評価した。実休と和歌を詠み交わした逸話が複数の軍記に残る。
最期
永禄7年5月9日、長慶の居城・飯盛山城に呼び出され、自害させられた。同行した従者18人も殺されたとされる。『言継卿記』には、冬康に逆心があったため殺されたという伝聞が記される。『続応仁後記』などの軍記は松永久秀の讒訴が原因とするが、『足利季世記』と『細川両家記』は讒訴があったと書くのみで久秀の関与には触れない。長慶が鬱病による被害妄想から殺害したとする説や、後継者・三好義継の地盤を固めるための粛清とする説もある。殺害後に冬康の無実を知った長慶は後悔し、まもなく病死したという。
その後
「神太郎」という息子が一次史料で確認できる。元亀末年に兄・実休の三男である神五郎が安宅家を継ぎ、のちに織田信長に属した。天正12年(1584年)、豊臣秀吉によって播磨国明石郡へ領地替えされ、水軍の棟梁の地位を失った。