※画像はイメージです。足利基氏
Ashikaga Motouji
初代鎌倉公方
解説
概要
足利基氏は室町幕府初代将軍・足利尊氏の四男で、鎌倉府の長官である鎌倉公方の初代。貞和5年/正平4年(1349年)、わずか10歳で関東へ下向し、以後18年にわたって東国統治の要にあった。兄・足利義詮が京都で二代将軍を務めたのに対し、基氏は鎌倉にあって関東を管轄し、室町幕府の東西二元統治体制を形づくった。
生涯と鎌倉下向
暦応3年/興国元年(1340年)に生まれる。1349年、父尊氏の命により、それまで鎌倉にあった兄義詮と入れ替わる形で関東へ下向した。当時の関東は南朝方の残存勢力と幕府内部の対立が絡み合う不安定な地であり、幼少の基氏は補佐役に支えられて統治を開始した。
観応の擾乱と入間川御陣
尊氏と弟直義が争った観応の擾乱では、基氏は直義派の旗頭として政治的に担がれる立場に置かれた。擾乱後は武蔵国入間川に陣を構え、約9年間にわたってここを拠点とする(入間川御陣)。この期間に南朝方や反抗的な国人の討伐を進め、鎌倉府の支配基盤を固めた。
上杉憲顕の復帰と鎌倉府体制
康安元年(1361年)、専横が目立った関東執事・畠山国清を罷免。貞治2年(1363年)には、かつて失脚していた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に復帰させた。この人事により、鎌倉公方を上杉氏が関東管領として補佐する体制が確立し、以後の鎌倉府の基本構造となる。一方でこの決定は反上杉勢力の反発を招き、のちの武蔵平一揆の遠因ともなった。
文化と最期
基氏は禅宗に深く帰依し、五山文学の保護者としても知られる。和歌にも通じ、鎌倉における武家文化の振興に寄与した。貞治6年/正平22年(1367年)、28歳の若さで死去。死因は「はしか」と伝わるが、『難太平記』は自害の可能性を示唆している。その死は兄義詮の死のわずか数か月前であり、幕府は東西で同時に世代交代を迎えることとなった。