※画像はイメージです。宮本包則
Miyamoto Kanenori
解説
出自と横山祐包への入門
宮本包則(みやもとかねのり、1830-1926)は、伯耆国大柫(現在の鳥取県倉吉市周辺)の醸造家の次男として文政13年(1830年)に生まれた刀工である。幼名を重彦といい、郷里の伝説的名工・安綱(伯耆安綱)に憧れて刀鍛冶を志したと伝わる。嘉永4年(1851年)、22歳のときに備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)を訪ね、横山祐包(よこやますけかね)に弟子入りした。ウィキペディアおよび刀剣ワールドの記録によれば、当初は同じ長船の横山祐永に入門を断られたともいわれ、祐包のもとで7年間にわたり備前伝の鍛刀技術を徹底的に習得した。この師弟関係の中で「包」の一字を受けて「包則」を名乗るようになったとされる。
幕末期の活動と戊辰戦争
安政4年(1857年)、鳥取藩の抱え工となり、藩の御用鍛冶として作刀を続けた。文久3年(1863年)には京都三条堀川に自らの鍛冶場を構え、尊王攘夷運動に加わる諸藩士からの注文に応じて作刀した。有栖川宮熾仁親王の庇護を受け、慶応3年(1867年)には能登守の受領名を授けられている。戊辰戦争の動乱期には官軍側を支援する立場で武士の刀を鍛造し、伏見稲荷大社に参籠して奉納刀を製作するなど、幕末動乱の渦中で刀工としての地歩を固めた。
備前伝と美濃伝の融合による作風
宮本包則の作風は、横山祐包から受け継いだ備前長船兼光(かねみつ)調を基調としながら、備前伝と美濃伝を融合させた点に特色がある。地鉄は細やかに詰んだ小板目肌で、刃文は優雅でありながら気取らない品格を持つとされ、時に相州伝の正宗を彷彿させる豪壮な作品も残している。この折衷的な作風は、幕末から明治にかけての刀剣需要の変化に対応しながら、備前伝の古典的な技術基盤を近代に伝える役割を果たした。
帝室技芸員任命と皇室への奉仕
明治39年(1906年)4月、宮本包則は月山貞一(がっさんさだかず)とともに、刀工として初めて帝室技芸員に任命された。帝室技芸員は、近代化が進む日本において伝統工芸技術の保存を目的として設けられた称号で、後の人間国宝(重要無形文化財保持者)制度の前身とされる最高栄誉である。大正4年(1915年)の大正天皇御大典に際しては大元帥刀の製作を命じられたほか、摂政宮(後の昭和天皇)や秩父宮の護り刀、伊勢神宮式年遷宮・平安神宮・明治神宮の神宝刀剣の鍛造も担った。孝明天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇の四代にわたって皇室に仕えた最後の御用鍛冶として位置づけられている。
長寿と歴史的意義
宮本包則は大正15年/昭和元年(1926年)10月24日、97歳で没するまで作刀を続けた。22歳での入門から数えて75年にも及ぶ長い刀工人生は、幕末の動乱期から明治の近代化、大正・昭和初期の皇室儀礼まで、日本刀剣史における大きな転換点を貫いて活動した稀有な事例である。備前伝の正統を受け継ぎながら美濃伝を取り入れた独自の作風と、帝室技芸員という最高栄誉の獲得は、近代日本刀剣史における宮本包則の重要性を今日に伝えている。墓所は東京・染井霊園にある。
代表作
- 大正天皇御大典 大元帥刀(1915年)
- 伊勢神宮式年遷宮 神宝太刀(1886年)