※画像はイメージです。固山宗次
Koyama Munetsugu
解説
固山宗次(こやまむねつぐ)は、享和三年(一八〇三)に陸奥国白河(現在の福島県白河市)に生まれた、江戸時代後期の新々刀期を代表する刀工である。通称を宗兵衛といい、一専斎・精良斎と号した。固山家は代々刀鍛冶を営んだ家で、宗次の兄にあたる固山宗平・固山宗俊もまた刀工として知られ、白河ゆかりの固山一門を形成した。宗次はやがて江戸へ出て名工加藤綱英の門を叩いたが、当時の綱英はすでに病を得て隠退していたため、その弟である長運斎綱俊に師事して鍛刀を学んだ。白河藩松平家とのゆかりのもとに研鑽を積み、文政から天保にかけて白河・桑名・江戸と活動の地を移して桑名藩の刀工としても遇された。弘化二年(一八四五)には備前介を受領し、四谷の左門町に居を構えて幕末の刀剣界に重きをなした。
作風は終生にわたって備前伝を専らとしたことで名高く、新々刀期における備前伝の第一人者と評される。よく詰んだ小板目肌の美しい地鉄に、匂出来で匂口の締まった華やかな丁子乱れを焼くことを最も得意とし、刃縁に荒沸がつかない冴えた出来を身上とした。宗次が範としたのは、鎌倉期に隆盛をきわめた福岡一文字や長船といった古備前の名作であり、蛙子丁子や逆がかる丁子、乱映りなどを特色とするこれら鎌倉備前の華やかさを、新々刀の地鉄をもって写し取ろうとした点に、その制作の核心がある。初期作には変化に富んだ華麗な丁子乱れが多く、嘉永頃からは頭の揃った互の目丁子を、晩年には互の目を連続して焼くなど、年代によって作風の推移が見られる。
宗次の刀は観賞上の美しさにとどまらず、よく切れる実用刀としても高く評価された。武芸が広く流行した幕末にあって、折れず曲がらず使いやすい刀を求める武家からの注文が絶えず、刃文の華やかさと切れ味の確かさを兼ね備えた「華実兼備の名工」と称された。とりわけ天保年間の作の出来が優れるとされ、「天保の宗次は黙ってでも買え」という言葉が今日まで語り継がれている。
その評価は新々刀の刀工のなかでも屈指のものであり、新々刀上々作に位置づけられる。源清麿・左行秀とともに新々刀を代表する三名工の一人に数えられ、幕末の備前伝を代表する名手として、固山一門の中心的存在であった。明治期に入っても作刀を続けたと伝わり、生没年には不明な点も残るが、その遺した作刀は備前伝復興の到達点を示すものとして、今日も高く尊ばれている。
代表作
- 刀(備前伝写し)