※画像はイメージです。宮本武蔵の愛刀
Beloved Sword of Miyamoto Musashi
別名: 無銘金重・和泉守藤原兼重(二天一流開祖・剣聖の佩刀)
解説
宮本武蔵の刀の名前——「無銘金重」と「和泉守藤原兼重」
宮本武蔵の刀として名が伝わる代表的な愛刀は二振ある。第一は「刀 無銘 金重(かねしげ)」。南北朝時代の美濃の刀工・金重の作と極められた無銘の打刀で、武蔵所用と伝えられ、熊本市の島田美術館に収蔵されている。刃長約70センチ・反り約1.7センチと反りの浅い姿は、斬り付けよりも突きと正確な太刀筋を重んじた武蔵の剣風に適うものと評される。第二は「和泉守藤原兼重(いずみのかみふじわらのかねしげ)」。江戸で活躍した新刀期の刀工・兼重の作で、刃長81.5センチに及ぶ長寸の刀。拵(こしらえ)は武蔵自身が手がけたと伝えられる。戦前までは熊本に所在が確認されていたが、現在は所在不明である。
なお、巌流島の決闘で佐々木小次郎を破った得物は刀ではなく木刀であり、渡し舟の櫂を削って作ったとする伝承が広く知られる。
剣聖・宮本武蔵の生涯
宮本武蔵(1584?〜1645)は、江戸時代初期の剣豪であり、二刀を遣う「二天一流」の開祖として日本武道史上もっとも著名な剣士の一人である。播磨国(現・兵庫県)または美作国(現・岡山県)の生まれとされ、生年・出生地には諸説がある。『五輪書』の自序によれば、13歳で初めての勝負に勝って以来、諸国の兵法者と六十余度戦って一度も敗れなかったという。29歳のころ、巌流島(現・山口県下関市)での佐々木小次郎との決闘に勝利し、天下にその名を知られた。晩年は熊本藩主・細川忠利に客分として招かれて肥後に移り、金峰山の霊巌洞に籠って兵法書『五輪書』を著し、正保2年(1645年)に熊本で没した。
二刀流と武蔵の刀剣観
二天一流は、大刀と小刀(脇差)を左右の手に執る二刀の理合を根幹とする。武蔵にとって刀は単なる武器ではなく「兵法の体現」であり、『五輪書』の「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」という言葉が示すように、刀を執る鍛錬と精神の錬磨は一体のものであった。決闘では木刀を選ぶことも辞さなかった武蔵が、日常の帯刀には反りの浅い実戦的な打刀を用いたと伝わることは、その徹底した合理主義の剣風とよく響き合っている。
工芸家としての武蔵——海鼠透鐔
武蔵は書画・工芸にも優れ、水墨画「枯木鳴鵙図」などの作品は美術史上も高く評価される。刀装の分野では、左右に海鼠(なまこ)形の透かしを配した鉄鐔「海鼠透鐔(なまこすかしつば)」の意匠を自ら考案したと伝えられ、今日も「武蔵鐔」の名で刀装具愛好家に親しまれている。剣・書画・刀装を貫く簡素で骨太な美意識は、武蔵の兵法思想そのものの表れといえる。
ゆかりの地——島田美術館・武蔵神社・霊巌洞
島田美術館(熊本市)は、伝武蔵所用「刀 無銘 金重」をはじめ武蔵ゆかりの遺品・書画を収蔵・展示する、武蔵研究の拠点である。
武蔵神社(岡山県美作市宮本)は生誕伝承地・宮本の地に鎮座し、武蔵の墓と伝わる塚が隣接する。
霊巌洞(熊本市西区・雲巌禅寺)は晩年の武蔵が『五輪書』を著した洞窟で、剣道・武道修行者の巡礼地となっている。
宮本武蔵の刀は現存する?
武蔵所用と伝わる「刀 無銘 金重」が熊本市の島田美術館に現存し、公開されることがある。「和泉守藤原兼重」は戦前まで熊本に伝来したが、現在は所在不明。いずれも「伝」であり、同時代史料で確実に裏付けられた佩刀は確認されていない。
巌流島の決闘で使った武器は?
木刀である。渡し舟の櫂を削って即席の木刀を作ったという伝承が有名で、道具に執着せず「拍子」と「間」で勝つ武蔵の兵法を象徴する逸話として語り継がれている。
武蔵は刀装も自分で作ったのか?
「和泉守藤原兼重」の拵は武蔵の自作と伝えられ、鐔では海鼠透鐔の意匠を考案したと伝わる。剣客であると同時に優れた工芸家でもあった点が、武蔵という人物の際立った特徴である。
逸話・伝説
宮本武蔵の愛刀には数多くの伝説がある。巌流島の決闘において武蔵が使用した木刀(木剣)は実際には小舟の舵板を削って作ったとも言われ、道具を選ばない武蔵の境地を示す逸話として語り継がれている。また武蔵が晩年に霊巌洞で『五輪書』を著していた際、傍らに置いた愛刀が夜中に鞘から自然に抜け出し、洞窟の壁に刃先が触れると青白い光を放ったという怪談めいた伝説も熊本に残る。さらに武蔵の愛刀を模写した刀工が、研ぎ上がった刀を鏡に映したところ武蔵の顔が浮かび上がったと語ったとも伝えられ、「剣聖の魂は刀に宿る」という信仰を後世に伝えている。武道家の間では「武蔵の刀を一度でも手に取った者は剣の神髄に近づける」という言い伝えが今も生きており、各地に伝わる武蔵の遺刀は常に武道修行者の巡礼地となっている。