※画像はイメージです。狐ヶ崎
Kitsunegasaki
別名: 狐ヶ崎為次・古青江為次の太刀・吉川家第一の重宝
解説
狐ヶ崎(きつねがさき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて備中国(現在の岡山県西部・倉敷市付近)で活動した古青江派(こあおえは)の刀工・為次(ためつぐ)の作と伝わる太刀で、国宝に指定されている。刃長はおよそ78.8cm、反りはおよそ3.4cmと、優美な太刀姿を見せる。安芸吉川家に約800年にわたって伝えられた家宝であり、青江派の太刀のなかでもとりわけ保存状態の良い名刀として名高い。
作者・為次と本刀の作風
作者の為次は、備中国青江の地に興った青江派のうち、その初期にあたる「古青江」の刀工である。狐ヶ崎は平安末期から鎌倉初期の太刀らしい腰反りの高い優美な姿を保ち、刃文は小乱れで足・葉がよく入り、小沸(こにえ)がついて匂口はやや沈みごころとなる。地鉄は小板目肌に肌立ちごころがあって、青江派特有の縮緬肌(ちりめんはだ)を見せ、地沸が厚くつき乱れ映りが立つ。茎(なかご)は生ぶ(製作当初のまま)で反りが高く、化粧やすりに大筋違(おおすじかい)の鑢目(やすりめ)が施され、二字銘で「為次」と切られる。青江派の現存作のなかでも保存がよく、同派初期の作風を伝える基準作として重んじられてきた。
号の由来
号「狐ヶ崎」は、この太刀が用いられた歴史的事件の現場の地名に由来する。正治2年(1200年)正月、鎌倉幕府の御家人・梶原景時が一族を率いて上洛しようとした際、駿河国清見関(現在の静岡市清水区)付近で在地の武士たちと戦闘になった。この「梶原景時の変」において、吉川氏二代の吉川友兼がこの太刀をふるって梶原景茂(景時の三男)を討ち取ったと伝わる。景時自身をはじめ嫡子景季・次男景高・三男景茂ら梶原一族が討たれた場所が狐崎(静岡市)であったことから、この太刀は地名をとって「狐ヶ崎」と名付けられ、吉川家の守り刀とされた。
来歴と吉川家伝来
吉川友兼の佩刀として知られたこの太刀は、以後、安芸吉川家の家宝として代々受け継がれた。吉川氏は戦国時代に毛利元就の次男・吉川元春を養子に迎えて毛利一門となり、関ヶ原の戦いでは吉川広家が活躍するなど、中国地方の歴史に深く関わった。狐ヶ崎は、こうした吉川家の盛衰とともに約800年にわたって守り伝えられ、武家の家宝が長い歳月を超えて現存する稀有な例となっている。
国宝指定と現所蔵
狐ヶ崎は、1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づく国宝に指定された。現在は公益財団法人吉川報效会の所有で、山口県岩国市の吉川史料館に収蔵されている。同館は吉川家に伝来した約7,000点の歴史資料・美術工芸品を収蔵する施設であり、狐ヶ崎はその中核をなす至宝として、特別展などの機会に公開されている。
逸話・伝説
狐ヶ崎の号は、鎌倉時代初期の政変「梶原景時の変」と深く結びついている。建久十年(1199年)に源頼朝が没すると、御家人筆頭格として権勢を誇った梶原景時は他の御家人らの弾劾を受けて鎌倉を追われ、一族を率いて京へ上ろうとした。正治二年(1200年)正月、その一行は駿河国狐ヶ崎(現在の静岡市清水区付近)で在地武士団と遭遇し、激しい合戦となった。
この戦いで、吉川小次郎友兼はこの太刀を振るって梶原方の武者を討ち取り、武功を挙げたと伝えられる。以後、本刀は「狐ヶ崎」と号され、友兼の家系である吉川家にとって最も誇るべき重宝として代々受け継がれた。吉川氏はやがて毛利氏の一門に列し、関ヶ原合戦後には周防岩国に三万石を与えられて幕末まで存続したため、本刀も岩国の地で大切に守られた。
作者の為次は備中国青江派の最古層を担う「古青江」の刀工で、その作は澄み切った地鉄と品位ある刃文を特徴とする。狐ヶ崎は古青江を代表する優品として、また在銘の確実な平安末〜鎌倉初期の太刀として刀剣史上きわめて重要な位置を占める。
昭和八年(1933年)に旧国宝に、昭和二十六年(1951年)には文化財保護法のもとで国宝に指定された。現在は吉川家ゆかりの文化財を収蔵する吉川史料館で保存され、特別公開の機会には多くの刀剣愛好家が訪れる名刀である。