
新着情報 — 最新の入荷情報はカタログをご確認ください。 商品を見る →
建久4年5月28日(1193年)
駿河国富士野(神野の御旅館。現・静岡県富士山麓)
勢力
曾我兄弟
工藤祐経方
約4分で読めます
建久4年5月28日(1193年)、源頼朝が駿河国の富士野で催した大規模な巻狩の最終日の夜、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、父の仇とされる工藤祐経の宿所に押し入って討ち取った。兄の祐成はその場で討たれ、弟の時致は捕らえられて翌日に処刑されたと伝わる。鎌倉幕府成立後まもない時期に、将軍の狩り場で起きた事件であり、幕府の記録である『吾妻鏡』にも記される。
この事件は、のちに『曽我物語』として物語化され、能・幸若舞・歌舞伎へと広がった。史実の部分と物語の部分は分けて読む必要がある。以下では、確かめられる記述と、物語に由来する伝承とを区別して述べる。
兄弟の父は河津祐泰である。『曽我物語』などによれば、安元2年(1176年)10月、伊豆の奥野の狩場で、伊東祐親・河津祐泰の親子が刺客に襲われ、祐泰が矢に当たって31歳で死んだという。この経緯は主に『曽我物語』に拠っており、同時代の記録で細部まで裏づけられるものではない。
事件の発端として語られるのは、伊東荘をめぐる所領争いである。伊東荘は工藤祐経が相続していたが、祐経が京へ上っている間に、伊東祐親がこれを奪い、祐経に嫁がせていた娘も離縁させたとされる。祐経はこれを恨み、郎党に祐親の暗殺を命じたという。
祐泰の死後、その妻は幼い兄弟を連れて曽我祐信と再婚し、兄弟は曽我の姓を名乗るようになった。兄弟が「曾我」を称するのはこのためである。
建久4年(1193年)、頼朝は富士野で大規模な巻狩を催した。工藤祐経もこの巻狩に随行していた。
『吾妻鏡』の5月28日条には、「曾我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」という趣旨の記事があるとされる。祐経と同席していた神官の王藤内のほか、負傷者9人と死者1人の名も同条に載るという。『曽我物語』は、目を覚ました王藤内が兄弟を説得しようとして斬られたことや、祐経を討った後に兄弟が十人と斬り結んだ「十番斬り」を語るが、これは物語の記述である。
兄の祐成は、仁田四郎忠常と対峙して討たれた。
弟の時致は、頼朝を目指したが御所五郎丸に取り押さえられた。翌5月29日に頼朝の尋問を受け、祐経の子・犬房丸(伊東祐時)の訴えにより、同日梟首された。兄弟の命日は、祐成が5月28日、時致が5月29日と一日ずれる。
事件は、思わぬ余波を鎌倉政権にもたらしたとされる。『保暦間記』は、頼朝が討たれたとの誤報を聞いた異母弟・範頼が、北条政子に「後にはそれがしが控えておりまする」と言ったことが、謀反の疑いを招いたと記す。ただし、これを記すのは『保暦間記』のみである。
『吾妻鏡』などによれば、その後、8月2日に範頼は頼朝へ起請文を送ったが、源姓を用いたのは僭越だとして許されなかった。8月10日夜には範頼の家臣の当麻太郎が頼朝の寝所の床下に潜んでいるところを捕らえられ、8月17日に範頼は伊豆へ配流された。8月20日には、兄弟の異父兄弟にあたる原小次郎が範頼の縁座で誅殺されている。範頼のその後は『吾妻鏡』に記載がなく、『保暦間記』などは誅殺されたとするが、いずれも14世紀以降の成立で、同時代の確証はない。
『曽我物語』は、作者・成立年とも不明の軍記物語で、原型は鎌倉時代中後期に成り、南北朝・室町時代に展開したと考えられている。箱根山の僧が原型を作ったとする説や、箱根・伊豆山の盲御前(瞽女)が語り広めたとする説がある。
『曽我物語』は能・幸若舞・歌舞伎の素材となり、兄弟を扱う作品は「曽我物」と総称される。江戸歌舞伎では、享保ごろから正月興行に曽我物を出すのが恒例となった。謡曲『元服曽我』は、箱根の別当に預けられていた弟の箱王を、十郎が連れ出して元服させる筋だが、これは芸能作品の筋であって史実ではない。歌舞伎では『矢の根』『対面』『草摺引』などが知られる。
江戸の劇場では、曽我狂言を正月から5月まで続けた年に、5月28日を中心に曽我祭を行った。1753年の中村座が最初で、江戸三座の恒例となり、文政期頃まで続いたという。
歌舞伎『助六』では、主人公の助六は実は曽我五郎で、源氏の宝刀「友切丸」を探して吉原に通い、髭の意休が持つ友切丸を取り戻す。これは芸能の中の設定であり、実際の事件の記録ではない。