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建仁3年9月2日(1203年9月)比企能員殺害、同日小御所の合戦で比企一族滅亡
鎌倉(比企能員殺害は北条時政の名越邸、比企一族滅亡は一幡の邸「小御所」)
勢力
北条氏(北条時政・北条政子・北条義時)
比企氏(比企能員とその一族、一幡)
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建久10年(1199年)正月、鎌倉幕府を開いた源頼朝が没すると、18歳の嫡男・源頼家が家督を継ぎ、鎌倉幕府2代将軍となった。しかし頼家の親裁権は御家人たちの反発を招き、同年4月には有力御家人13名による合議制が敷かれ、若い将軍の独断による訴訟裁定は制限されることとなった。正治2年(1200年)には有力御家人の梶原景時が他の御家人たちの弾劾を受けて失脚・滅亡する梶原景時の変が起こり、頼家を支える勢力図は大きく塗り替えられていった。
こうした中で頼家の乳母夫(めのとぶ)を務め、将軍の外戚として急速に権勢を強めていったのが比企能員であった。能員の娘・若狭局は頼家の妻となり、両者の間に生まれた男子・一幡は頼家の嫡男として、比企一族にとって将軍家との結びつきをより強固にする存在であった。比企氏の勢力拡大は、頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏、とりわけ政子の父・北条時政にとって、幕政における自らの地位を脅かす重大な脅威として映るようになっていった。
建仁3年(1203年)7月、将軍頼家が重い病に倒れた。頼家の容体が悪化する中、8月27日には後継をめぐる取り決めがなされ、頼家の嫡男・一幡が関東28か国の地頭職と日本国総守護職を、頼家の弟・千幡(後の源実朝)が関西38か国の地頭職を分割継承することが決められた。この分割相続は、一幡を擁する比企能員にとって当初の期待よりも取り分が少ないものであり、能員の不満を招いたと伝えられる。
不満を募らせた能員は、病床の頼家に対して北条時政討伐を促したとされる。ところがこの謀議は、御所の中でこれを盗み聞いた北条政子によって直ちに父・時政のもとへ伝えられた。娘からの急報を受けた時政は、先手を打って比企一族の排除に動くことを決断する。
建仁3年9月2日、北条時政は薬師如来供養と称して比企能員を自らの名越邸に招いた。何も知らずに訪れた能員は、時政の郎従であった天野遠景・仁田忠常らによって左右から取り押さえられ、そのまま殺害された。首謀者である能員を欺き討ちにすることで、時政は比企一族の中枢を一撃のもとに奪うことに成功した。
能員殺害の報を受けた比企一族は、一幡の邸である「小御所」に立てこもり、北条義時を大将とする北条方の軍勢を迎え撃った。激しい攻防の末、多勢に無勢の比企勢は館に火を放って自ら命を絶ち、比企一族はここに滅亡した。頼家の嫡男・一幡もこの戦いのさなかに命を落としたと伝えられている。
比企一族滅亡の報を受けた頼家は、9月7日、出家を命じられて将軍の座を追われた。頼家に代わって弟の千幡が3代将軍・源実朝として擁立され、幼い実朝を後見する形で北条時政が幕政の実権を握ることとなった。出家させられた頼家はその後伊豆国修禅寺に幽閉され、翌元久元年(1204年)7月、23歳でその生涯を閉じた。
比企能員の変は、源頼朝の死からわずか4年の間に起きた梶原景時の変に続く2件目の有力御家人粛清事件であり、鎌倉幕府草創期における御家人間の激しい権力闘争を象徴する事件である。この政変によって将軍家の外戚としての地位を築いていた比企一族は完全に排除され、北条氏は将軍の後見役として幕政における主導権を確立した。この北条氏の権力確立は、後の畠山重忠の乱・牧氏事件を経て北条義時による執権政治の確立へとつながっていく、鎌倉幕府における北条氏台頭の重要な画期として位置づけられている。