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昭和11年2月26日〜29日(1936年)
東京市麹町区永田町一帯(陸軍省・参謀本部・警視庁・首相官邸等、現・東京都千代田区永田町)
勢力
蹶起部隊(陸軍皇道派青年将校)
鎮圧側(戒厳司令部・陸軍首脳部)
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昭和初期の日本陸軍内部には、天皇親政と国家革新を掲げる「皇道派」と、総力戦体制の整備を志向する「統制派」という二つの派閥の対立が存在していた。昭和恐慌による農村の疲弊、都市部の経済的困窮、政党政治への不信感の高まりを背景に、皇道派に近い一部の青年将校らは、既存の政治・財閥・重臣層を「君側の奸」とみなし、これを武力で排除して天皇親政による国家改造(いわゆる「昭和維新」)を実現しようとする急進思想を強めていった。
こうした空気の中、昭和10年(1935年)には皇道派の中心人物であった真崎甚三郎が教育総監を更迭され、これに反発した相沢三郎中佐が統制派の永田鉄山軍務局長を斬殺する「相沢事件」が起きるなど、陸軍内部の派閥対立は先鋭化の一途をたどっていた。翌昭和11年(1936年)に予定されていた東京の第一師団の満洲派遣も、皇道派の将校たちにとっては蹶起の機会を逸するとの焦燥感を強める一因になったとされる。
さらに遡れば、昭和7年(1932年)5月15日には海軍青年将校らが首相官邸を襲撃して犬養毅首相を暗殺する「五・一五事件」が既に発生しており、この事件を境に政党内閣の慣行そのものが事実上終わりを告げていた。五・一五事件の被告らに対する軍法会議・裁判が世論の同情を集めて比較的軽い量刑に終わったことは、後の二・二六事件の将校たちに「昭和維新」実現への武力行使が容認されうるとの誤った期待を抱かせた一因になったとも指摘されている。
昭和11年(1936年)2月26日未明、雪の降り積もる東京で、野中四郎大尉・安藤輝三大尉・栗原安秀中尉ら約20名の青年将校が、歩兵第1連隊・歩兵第3連隊・近衛歩兵第3連隊などから動員した下士官兵約1500名を率いて一斉に蹶起した。部隊は複数の襲撃隊に分かれ、内閣総理大臣官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁、朝日新聞社などを次々と占拠し、東京永田町一帯を実力で制圧した。
各襲撃隊は、政府・宮中の要人邸を同時に襲撃した。大蔵大臣・高橋是清は赤坂の私邸で就寝中を襲われ、拳銃で撃たれたのち、なおも将校らの軍刀による斬撃を受けて絶命した。高橋は財政通貨政策を通じて軍備拡張に一定の歯止めをかけようとしていたことから、青年将校らの間で強い敵視の対象となっていたと伝えられる。内大臣・斎藤実も自邸で銃撃を受けて死亡し、教育総監・渡辺錠太郎は杉並の自宅で九歳の娘の目前において機関銃掃射と銃剣による攻撃を受けて命を落とした。内閣総理大臣・岡田啓介は官邸内の物置に身を隠して難を逃れたが、誤って義弟の松尾伝蔵が身代わりとして殺害された。侍従長・鈴木貫太郎も銃撃を受けて重傷を負ったが一命を取り留めている。前内大臣・牧野伸顕は静岡県湯河原の宿泊先「光風荘」を民間人主体の襲撃部隊に襲われたが、護衛の皆川義孝巡査が銃撃で応戦して時間を稼ぎ、その間に裏口から脱出して難を逃れた。建物は放火により炎上し、皆川巡査は殉職している。東京以外で唯一実際の襲撃が発生したこの湯河原の事件は、蹶起計画が首都圏に限らず広範囲に及んでいたことを示している。
事件のわずか2年前にあたる昭和9年(1934年)、陸軍は将校用の制式軍刀を、それまでの西洋式サーベル拵から日本古来の太刀を模した拵へと一新する「九四式軍刀」を制定していた。これは軍国主義と民族主義の高揚を背景に、洋式一辺倒であった軍装を日本的な意匠へ改めようとする時代の気運を反映したものであり、蹶起将校らが佩用していたのもこの新しい軍刀であった。高橋是清の暗殺で銃撃に続いて軍刀による斬撃が加えられた事実は、こうした軍刀が単なる装飾的な儀礼刀ではなく、実際に用いられる武器として将校の身近にあり続けたことを物語っている。尊皇と国粋を掲げた青年将校たちの精神性と、太刀拵への回帰を志向した軍刀改正の思想的背景には、共に「日本的なるもの」への回帰を志向する昭和初期特有の時代精神が色濃く反映されていたと指摘されている。
蹶起当初、陸軍首脳部の一部には反乱部隊の行動に一定の理解を示す動きもあり、蹶起部隊を正規の治安維持部隊として追認しようとする動きすら見られた。しかし昭和天皇は要人殺害の報に激怒し、「朕自ら近衛師団を率い、鎮圧に当たらん」と側近に述べたと伝えられるほど断固たる鎮圧の意思を示した。2月27日には東京に戒厳令が布告され、香椎浩平を司令官とする戒厳司令部が設置され、反乱部隊は次第に「叛乱軍」として包囲される立場へと追い込まれていった。29日朝には「勅命下る 軍旗に手向うな」と記されたビラが上空から投下されるとともに、ラジオ放送「兵に告ぐ」を通じて下士官兵に原隊復帰が繰り返し呼びかけられた。天皇による奉勅命令が発せられたことで反乱部隊の大義名分は完全に失われ、同日午後までに大半の兵は原隊へ復帰し、蹶起はわずか4日間で終息した。将校の一部はその場で自決し、あるいは自決を試みたが果たせなかった者もいた。
事件後、首謀者とされた将校らは、公開・弁護人選任・上訴のいずれも認められない非公開の特設軍法会議によって裁かれた。通常の軍法会議とは異なるこの特別な裁判形態は、事件の政治的重大性ゆえに異例の速さで審理を進めるために設けられたものであった。昭和11年7月、蹶起の中心となった将校ら十数名に死刑判決が下され、東京陸軍刑務所において銃殺刑に処された。また、蹶起将校らに思想的影響を与えたとされる民間思想家・北一輝と西田税も、別途の取り調べを経て翌昭和12年(1937年)8月に銃殺刑に処されている。一方、事件の遠因を作ったとされる皇道派の重鎮・真崎甚三郎は、反乱教唆の疑いで起訴されたものの証拠不十分として無罪となった。
二・二六事件の鎮圧により陸軍内の皇道派は一掃され、以後は統制派が陸軍の主導権を握ることとなった。しかし皮肉なことに、この事件を境に陸軍は「粛軍」を名目として政府・内閣の人事に対する発言力をかえって強め、同年に復活した軍部大臣現役武官制の運用とも相まって、政党政治の影響力はさらに後退していった。事件を機に成立した広田弘毅内閣は軍部の意向を強く反映した組閣を余儀なくされ、以後の日本は軍備拡張と大陸政策の積極化へと大きく舵を切っていくことになる。二・二六事件は、日本が政党政治から軍部主導の国家体制へと傾斜し、日中戦争・太平洋戦争へと至る戦時体制を準備する上で、決定的な転換点の一つとして日本近代史に位置づけられている。
なお、蹶起将校らが佩用した九四式軍刀に象徴される軍刀文化は、この後も太平洋戦争の敗戦まで続くが、敗戦直後にはGHQによる刀剣接収政策により、軍刀を含む大量の日本刀が没収・廃棄の危機に晒されることになる。尊皇的国粋主義の高揚とともに広まった軍刀文化が、わずか10年足らずのうちに正反対の運命——武装解除の対象としての接収——をたどったことは、近代日本刀の歴史における大きな転換の一つといえる。