上月城の戦い
天正5年〜天正6年(1577年〜1578年)
播磨国上月城(現・兵庫県佐用郡佐用町)
- 日時
- 天正5年〜天正6年(1577年〜1578年)
- 場所
- 播磨国上月城(現・兵庫県佐用郡佐用町)
- 結果
- 尼子勝久は自刃、山中幸盛(鹿介)は護送中に謀殺され、尼子氏再興は完全に潰えた
勢力
尼子再興軍(織田・羽柴方)
毛利連合軍
約3分で読めます
背景——尼子氏再興運動と上月城
出雲の戦国大名・尼子氏は、永禄9年(1566年)に月山富田城が毛利元就によって落とされ、事実上滅亡していた。しかし尼子旧臣の山中幸盛(通称・鹿介)は主家再興を諦めず、尼子経久の血を引く勝久を擁立して各地を転戦し、尼子再興軍を組織していた。天正5年(1577年)、織田信長が中国地方攻略のため羽柴秀吉を派遣すると、尼子再興軍はこれに合流し、織田方の先鋒として毛利領国への侵攻に加わる。秀吉軍は播磨に進出し、宇喜多直家方の上月城を攻略すると、この城を尼子再興軍に預けた。上月城は播磨国西端、備前・美作との境目に位置する要衝であり、尼子勝久・山中幸盛らはここを再興運動の拠点と定めた。
経過——毛利の大軍による包囲と織田方の後詰断念
天正6年(1578年)4月、毛利輝元を総大将とし吉川元春・小早川隆景が率いる毛利連合軍、総勢約3万が上月城を完全に包囲した。城内の尼子再興軍はわずか数百から2千程度と伝わり、兵力差は圧倒的であった。羽柴秀吉は当初、上月城の後詰(救援)に向かおうとしたが、同時期に播磨三木城で別所長治が織田方から離反し、秀吉軍の後方が脅かされる事態となる。信長は秀吉に対し、上月城を見捨てて三木城攻めに専念するよう命じたと伝えられ、秀吉は苦渋の決断のうえ上月城からの撤退を選択した。孤立した上月城はその後も約3ヶ月にわたって毛利の大軍に抗したが、兵糧も尽き、同年7月、ついに尼子勝久は自らの命と引き換えに城兵の助命を条件として降伏を申し出た。
刀工・刀剣との関わり——山中鹿介と武具にまつわる伝承
上月城の戦いそのものについて、特定の名刀の来歴を直接記録した一次史料は確認されていない。しかし、この戦いで名を残した山中幸盛(鹿介)は、後世「三日月に祈りて曰く、願わくは我に七難八苦を与えたまえ」という逸話で広く知られ、江戸期以降の軍記物・浮世絵・講談などにおいて、甲冑を身にまとい太刀を帯びた武士の理想像として繰り返し描かれてきた人物である。実際の合戦において尼子再興軍の将士たちが太刀・打刀を帯びて戦ったことは、この時代の武士の装備として当然のことであり、上月城という播磨・備前・美作の境目に位置する山城での攻防は、まさに刀剣が実戦で用いられた戦国後期の合戦の典型例のひとつといえる。個別の伝世刀剣の確実な記録は乏しいものの、山中鹿介の忠義の物語は近世以降の武士道的な刀剣文化・武具趣味の中で繰り返し取り上げられる題材となった。
結果——尼子勝久の自刃と山中鹿介の最期
天正6年(1578年)7月3日、尼子勝久は城兵の助命と引き換えに自刃し、上月城は開城した。享年26。城に籠っていた一族の氏久・通久・幸政らも運命を共にしたと伝わる。山中幸盛は毛利方に捕らえられ、備中方面へ護送される途上、同年7月17日、備中国阿井の渡(現・岡山県高梁市付近)において謀殺された。享年34。ここに、永禄9年の月山富田城落城以来続いた尼子氏再興の望みは完全に潰え、尼子氏は歴史の表舞台から姿を消すことになった。
歴史的評価
上月城の戦いは、織田信長の中国攻めという大きな戦略の中で、一つの地方勢力の再興運動がその奔流に呑み込まれて終わった事件として位置づけられる。信長が秀吉に後詰を断念させた判断は、局所的な義理よりも全体戦略を優先する織田政権の合理主義を象徴する逸話としてしばしば語られる。一方で、主家滅亡後も十数年にわたって再興の旗を掲げ続けた山中鹿介の生涯は、近世以降「忠臣」の理想像として顕彰され、岡山県高梁市や鳥取県、島根県には彼を祀る神社や顕彰碑が現在も残る。上月城の戦いは、戦国末期における大名間の非情な戦略判断と、滅びゆく一族に殉じた武士の忠義という、対照的な二つの物語が交差する合戦として、今も語り継がれている。