
戊辰戦争合戦
清川口の戦い(庄内藩と新政府軍の開戦・1868年)
慶応4年4月24日(1868年5月16日)
出羽国・庄内地方の清川(現・山形県東田川郡庄内町)
- 日時
- 慶応4年4月24日(1868年5月16日)
- 場所
- 出羽国・庄内地方の清川(現・山形県東田川郡庄内町)
- 結果
- 4月25日、鎮撫軍が庄内軍に敗れ、夕刻に新庄へ引き上げた。
勢力
庄内軍
大将
兵力庄内藩の軍勢
鎮撫軍(新政府軍)
大将
兵力薩摩・長州・仙台・天童などの藩兵
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概要
慶応4年(1868年)4月24日の早朝、清川口で戦端が開かれた。この戦いは、庄内藩と鎮撫軍の最初の交戦であり、秋田戦争(秋田・庄内の戊辰戦争)の発端とされる。
開戦までの経緯
慶応4年2月、村山郡の幕領が庄内藩の預地となった。4月2日、庄内藩は寒河江から撤退した。その夜、薩摩・長州・仙台・天童などの新政府軍が寒河江に入った。これを柴橋事件という。
清川口の戦い
4月24日早朝、清川口で戦端が開かれた。翌25日には鎮撫軍が庄内軍に敗れ、夕刻に新庄へ引き上げた。
天童の戦いと庄内軍の帰還
閏4月4日、庄内軍が鎮撫軍に先制攻撃をかけ、天童の市街地を焼いた。これを天童の戦いという。閏4月12日、藩主の停戦・撤退命令により、庄内軍は領地へ戻った。
秋田方面への出兵と降伏
7月、久保田(秋田)藩が奥羽越列藩同盟から離反した。庄内軍は秋田方面へ出て、約2か月の戦闘に入った。会津藩の降伏後、庄内軍は久保田領内から退却した。明治元年9月下旬、庄内藩の使者が古口の鎮撫軍本営で参謀の黒田清隆に会い、降伏を申し出た。
戦後
戦後の処置は寛大なものとされたが、減封・転封の処分があった。庄内藩は1871年に廃藩となった。