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1338年(暦応元年・延元3年)
京都
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1338年(暦応元年・延元3年)、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、足利将軍家の開祖となった。室町幕府は京都に置かれた武家政権であり、三代将軍・足利義満が造営した花の御所(室町殿)にちなんでその名がある。幕府の実質的な成立は、1336年(建武3年)に政治方針を示す建武式目が発せられた時点とされ、1338年の将軍任官はその体制を公式なものとした出来事である。幕府は1573年、足利義昭が織田信長によって京都を追われるまで続いた(義昭の将軍辞任を1588年とする見方もある)。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政が始まったが、武士たちの期待と政権の実情は食い違い、尊氏は後醍醐天皇と対立するに至った。1336年、尊氏は京都で後醍醐天皇を退け、光明天皇を立てた。後醍醐天皇はのち吉野に拠り、京都の北朝と吉野の南朝が並び立つ南北朝時代が始まる。
この年、尊氏は政権の政治方針を示す建武式目を発した。これは条文によって新政権の基本的な施政の方向を定めたもので、室町幕府の政治綱領としての性格を持つ。ただし、式目の段階では尊氏はまだ征夷大将軍に任じられていない。
1338年(暦応元年・延元3年。資料により建武5年とも表記される)、尊氏は征夷大将軍に任じられた。将軍職は武家の棟梁であることを朝廷が公認する地位であり、これによって尊氏の政権は名実ともに幕府として整うことになった。年号の表記は北朝・南朝で異なるため、西暦1338年で示すのが混乱がない。
幕府の発足後も、南朝との対立は続いた。幕府の体制は、将軍が直接すべての家臣を統率する形ではなく、守護と呼ばれる各地の武士が地方を治め、将軍の任命によってその正統性が支えられるという連合的な性格を持っていた。この仕組みはのちに守護大名の成長を促した。
室町幕府の成立期は、日本刀の歴史では南北朝時代にあたる。この時代には長大な太刀が作られたことが知られ、戦乱が続く社会の需要を映している。将軍を頂点とする武家社会では、刀剣は武士の象徴であると同時に、主従関係を示す贈答品としても重要であった。
足利将軍家は、のちの時代にも名刀と結びつけて語られる。たとえば十三代将軍・足利義輝は、永禄8年(1565年)に殺害される際に、所持していた刀剣を用いて戦ったと伝えられる。ただし、これは尊氏の将軍就任から200年以上のちの出来事であり、個々の名刀の伝来については、各所蔵館や研究書で確認する必要がある。本項では、尊氏の就任と特定の刀剣を結びつける確かな史料を確認できていないため、その種の記述は行わない。
尊氏による征夷大将軍就任は、京都に武家政権を置くという新しい政治の形を定着させた。鎌倉幕府が東国に置かれたのに対し、室町幕府は朝廷のある京都に拠点を置いた。そのため、公家社会と武家社会の交流が深まったことが、のちの室町文化の背景になったと説明される。
また、三代将軍・足利義満の時代に南北朝が合一され(明徳の和約)、幕府は全盛期を迎えた。一方、六代将軍・足利義教が1441年の嘉吉の変で殺害されると、将軍の権威は低下し、実権は細川氏や三好氏へと移っていった。
室町幕府は約240年続いた武家政権であり、その出発点となるのが1338年の尊氏の将軍就任である。ただし、幕府の成立時期は、1336年の建武式目の発布とするか、1338年の将軍任官とするかで見方が分かれる。いずれも史実としての重みを持つため、本項では、方針の提示と、官職による正式化という二つの段階として整理した。
尊氏の人物像や、後醍醐天皇との対立の評価については、研究者によって見方が異なる。本項は年次の確認できる事実にとどめ、評価の部分は断定を避けた。