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※画像はイメージです。左行秀(さの ゆきひで)は、幕末の土佐藩を代表する新々刀の刀工です。筑前に生まれ、江戸で学び、のちに土佐へ移って藩工となった経歴から、「土佐正宗」とも呼ばれてきました。同じ時代に活躍した源清麿と並べて語られることも多く、新々刀を学ぶうえで欠かせない名前です。
この記事では、左行秀の経歴、作風、銘の見方を、伝わっている範囲で整理します。生没年や移住の時期は資料によって細部が異なるため、「とされる」という書き方を残しています。
左行秀は、文化10年(1813年)ごろに筑前国で生まれたとされる刀工です。本名は豊永久兵衛(のち久左衛門)と伝えられ、作刀期は天保11年(1840年)ごろから明治3年(1870年)ごろまでとされます。
「左」の字は、南北朝時代の筑前の名工である左文字(さもんじ)に由来します。左行秀は自らの作に「左文字三十九代孫」と刻んだものがあると伝わり、筑前の左文字系の流れを汲む意識を持っていたことがうかがえます。
経歴は大きく三つの段階に分けて語られます。
筑前、江戸、土佐と土地を移りながら技量を磨いた点が、左行秀の大きな特徴です。江戸時代の末期は、藩が洋式の鉄砲や大砲の鍛冶も抱えた時代でした。左行秀も鉄砲鍛冶を兼ねた藩工として扱われたとされ、刀剣だけに閉じない仕事ぶりがうかがえます。
晩年は土佐へ戻り、明治3年ごろまで作刀を続けたとされます。没年は明治20年(1887年)、享年75歳とする説が知られています。
左行秀の作は、時期によって作風が変わります。初期は江戸で学んだ流れを受けた作とされますが、嘉永年間のころから、沸(にえ)と匂(におい)の深い相州伝へと作風が移ったと説明されます。
こうした作風から、相州伝の名手として評価され、井上真改(いのうえしんかい)に私淑して研究したと紹介されることもあります。相州伝そのものの見どころは、郷義弘や正宗十哲の記事でも触れています。
左行秀の銘には、時期や場所によっていくつかの型があります。代表的なものを挙げます。
ただし、人気のある刀工であるため、銘の真贋は慎重に見る必要があります。銘だけで判断せず、姿、地鉄、刃文の出来を含めて総合的に判断し、可能であれば日本美術刀剣保存協会などの鑑定書で裏づけを取るのが基本です。鑑定書の種類については刀剣鑑定書の種類と信頼性も参考になります。
幕末の新々刀期には、複数の名工が並び立ちました。左行秀とよく比べられるのが、信濃出身で江戸で活躍した源清麿です。
清麿については源清麿の記事で詳しく扱っています。また、土佐を含む四国の刀工の流れは四国の刀工史にまとめています。
左行秀の刀を見るときは、次の点に注目すると違いが分かりやすくなります。
こうした見どころは、同じ新々刀の作でも刀工ごとに異なります。気になる一振りがあれば、写真と寸法、状態の説明を丁寧に読み比べることが大切です。
左行秀は、筑前、江戸、土佐と移りながら技を磨き、相州伝の名手として「土佐正宗」と呼ばれた幕末の刀工です。経歴や年代に諸説がある点には注意しつつ、姿、刃文、地鉄の三点から作風をつかむと、新々刀の魅力が見えてきます。
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