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※画像はイメージです。相楽総三は、本名を小島四郎左衛門将満といい、江戸に生まれた郷士の子である。国学と兵学を修め、文久元年(1861年)以降は志士として関東を中心に活動した。尊皇攘夷の理念を胸に幕府転覆を志し、慶応年間には江戸で挙兵計画にも関与したとされる。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れ、新政府軍が東進を開始すると、相楽は薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て、新たな部隊の結成に動いた。
慶応四年一月八日(1868年2月1日)、近江国松尾山の金剛輪寺において「赤報隊」が結成され、相楽総三が隊長に就いた。赤報隊は新政府軍の先鋒として東山道を進みながら、相楽自身が建白し採用されたとされる年貢半減令を各地で布告して回った。この触れは、戦乱で疲弊した農村の支持を新政府側へ引き寄せる狙いを持っており、行く先々で農民から歓迎されたと伝えられる。旧幕府側の抵抗が根強い地域を先行して切り開き、新政府軍本隊の進軍を助ける役割を、この草莽隊は担っていた。
ところが新政府は、財政上の理由から年貢半減を正式に認める書き付けを赤報隊に与えておらず、方針転換によってこの触れを撤回する立場に転じる。赤報隊が信濃国下諏訪まで進んだところで、新政府は一転して「勝手に官軍を名乗り、年貢半減を無断で触れ回った偽官軍である」として相楽ら幹部を捕縛した。相楽総三ら幹部8名は、厳寒の中で満足な取り調べも受けないまま三日間外に晒され、その後斬首された。相楽は享年30であった。新政府が自らの政略のために利用した草莽隊を、都合が悪くなると切り捨てた事件として、後年まで語り継がれている。
赤報隊のような草莽隊には、郷士や浪士、あるいは農村出身の志願兵などが幅広く加わっており、正規の藩兵とは違って装備は統一されていなかった。先祖伝来の打刀や脇差を差した者、槍を携えた者、入手できた洋式小銃を担ぐ者が入り混じり、身分や出自を問わず刀を帯びることが志士としての矜持を示す手段にもなっていた時代である。戊辰戦争のこの段階では、正規軍の主力武器はすでに小銃や大砲へと移行しつつあったが、草莽隊のような非正規部隊では旧来の刀剣が依然として重要な装備であり、また処刑という形で命が絶たれる場面では、時代が変わっても最終的には刀による斬首という旧来の作法が用いられ続けたことも、この事件の悲劇性を際立たせている。
相楽総三らの死から二年後の明治三年(1870年)、生き残った同志たちが信濃国下諏訪に塚を築き、「魁塚(さきがけづか)」と名付けて彼らの霊を弔った。長らく賊名を着せられたままだったが、子孫や関係者による名誉回復の働きかけが実を結び、昭和三年(1928年)には相楽総三に正五位が追贈されている。赤報隊の事件は、維新の大義のために利用され、そして切り捨てられた草莽隊の悲劇として、幕末から明治への転換点における権力の非情さを今に伝える出来事である。刀を帯びて時代の変革に身を投じた者たちの姿は、単なる武具の歴史を超えて、幕末という時代そのものを映す鏡と言えるだろう。
赤報隊事件は、新政府軍が東進する過程で各地に組織された「草莽隊」と呼ばれる非正規部隊が共通して抱えていた不安定な立場を象徴する出来事でもあった。年貢半減という農村向けの政策を先んじて布告することで新政府への支持を集めるという役割を担いながら、いざその公約が政府の財政方針と齟齬をきたすと、真っ先に切り捨てられたのが現場で刀を取り指揮を執った相楽総三たちだったのである。赤報隊以外にも、同様の経緯で解散や処分を受けた草莽隊は各地に存在したとされ、維新の大義の陰で無名の志士たちが払った犠牲は、正史では見えにくい部分として今日でも研究が続けられている。
相楽総三の名誉回復は、明治維新から60年を経た昭和になってようやく実現したものであり、その道のりの長さそのものが、新政府樹立の過程がいかに政治的思惑に左右されていたかを物語っている。刀を帯びて草莽から立ち上がった者たちの理想と、その理想が政治の都合によって踏みにじられた現実は、幕末から明治への移行期における刀剣と人間の関係を考えるうえで重要な一断面を成している。
赤報隊が本拠を置いた近江国松尾山の金剛輪寺は、東山道を通じて京と東国を結ぶ交通の要衝に近く、新政府軍の先遣隊としての役割を果たすうえで意味を持つ立地だった。下諏訪で処刑された相楽ら8名の亡骸は当初正式な弔いも許されなかったが、後に同志や地元有志の尽力によって供養が行われ、今日では下諏訪町に関連の資料や史跡が伝えられている。