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※画像はイメージです。1876年(明治9年)3月、明治政府は廃刀令(帯刀禁止令)を発布し、大礼服着用者や軍人・警察官等を除いて、帯刀を禁止した。これは同年の秩禄処分と並んで、武士という身分そのものの経済的基盤を失わせる政策の一つであり、日本刀の需要に直接的な打撃を与えた。武士が日常的に刀を差さなくなったことで、実用刀としての日本刀の需要は急速に縮小し、刀を打つことを生業としてきた刀工たちは、それまでの仕事のあり方を根本から見直さざるを得なくなった。それまで武家社会という安定した顧客層に支えられてきた刀工の仕事は、この一枚の法令によって足場を失うことになったのである。
廃刀令以前から、明治維新後の秩禄処分や身分制度の解体によって、武士階級を主な顧客としていた刀工の経営は苦しくなっていた。廃刀令はその流れを決定づける出来事だったといえる。刀剣の需要が失われた以上、刀工がそれまで培ってきた鍛造技術をそのまま生かせる仕事は限られていた。工房を構え弟子を抱えていた刀工ほど、需要の急減は死活問題となり、多くの刀工は、次のような道のいずれかを選ぶことになった。
このうち、技術の継続性という点で最も現実的だったのが2の道であり、実際に多くの刀工がこの道をたどったことが各地の刃物産地の成り立ちからうかがえる。刀を打つ技術がまったく無駄になるわけではなく、対象を刀身から日用の刃物へ切り替えることで、これまでの熟練を生かし続けられる道が残されていたことが大きい。
日本刀の鍛造は、玉鋼を折り返し鍛錬して硬軟の層を作り、焼き入れによって鋭い刃を生み出す技術体系である。この技術は、切れ味を要求される包丁の製作にも応用が利く。刀身を鍛える技術と包丁を鍛える技術は、鋼材の扱い方や焼き入れの勘所において共通する部分が多く、刀工が包丁鍛冶へ転業する例は各地で見られた。実用一辺倒の農家向け包丁から、料理人向けの高級包丁まで、幅広い需要が転業先として存在したことも、この転身を後押しした。刀身の反りや地鉄の鍛え方に磨きをかけてきた職人にとって、包丁は寸法こそ小さいものの、切れ味と耐久性の両立という点で通じるものが多い道具だった。
包丁以外にも、鎌・鍬・鋤などの農具、あるいは鋏の製作へ転じた刀工も少なくない。農具や鋏もまた、刃の切れ味と耐久性が求められる道具であり、刀剣の鍛造で培った技術が応用できる分野だった。都市部の武家を主な顧客としてきた刀工にとって、農村部で日常的に需要のある農具は、新たな顧客層を開拓する意味でも合理的な転業先だったといえる。農具は消耗品として継続的に買い替え需要が見込める点も、刀剣という嗜好品的な性格の強い商品とは異なる強みだった。刀剣が身分と結びついた特別な道具であったのに対し、包丁や農具、鋏は身分を問わず誰もが日常的に使う道具であり、需要の裾野そのものが桁違いに広いという点も、転業先として選ばれた理由の一つだったと考えられる。
刀剣の産地として古くから知られていた岐阜県関市は、廃刀令後に刀工の技術が刃物産業へと引き継がれた地域の代表例として知られる。関はもともと鎌倉時代以来の刀剣産地であり、廃刀令によって刀剣需要が縮小したのちも、蓄積された鍛造技術を土台として包丁をはじめとする刃物の産地へと転換していった。現在の関市が「刃物のまち」として知られているのは、こうした歴史的な技術継承の結果である。個々の刀工の転業の記録が詳細に残っているわけではないが、産地全体としての技術転換の事例として広く知られている。こうした地域単位での転換は、個々の刀工が孤立して転業したのではなく、地場に蓄積された鍛冶の技術基盤そのものが次の産業へと引き継がれたことを示している。
廃刀令によって刀工という職業そのものは大きく数を減らしたが、その鍛造技術は包丁や刃物、農具といった日用品の生産技術として現代まで受け継がれている。日本各地の刃物産地の多くが、遡れば刀剣鍛冶の系譜につながっているのは、こうした明治期の転業の積み重ねによるものである。刀を打つ技術と、暮らしの道具を打つ技術は、鋼を鍛えるという根本において地続きであり、廃刀令という制度の断絶を越えて、その技だけは現代の刃物産地に生き続けている。刀剣そのものの歴史や文化的背景に関心のある方は、TOUKENZAのオンラインカタログで実際の刀剣を閲覧できるので、あわせて参考にしていただきたい。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。