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※画像はイメージです。粟田口吉光は鎌倉時代後期(13世紀後半)、京都・粟田口の地で活躍した刀工だ。通称は「藤四郎(とうしろう)」。江戸時代の『享保名物帳』では相州の正宗・越中の郷義弘(ごうのよしひろ)と並ぶ「天下三作(てんかさんさく)」の一人に数えられ、特に短刀制作の名手として日本刀史に名を刻む。吉光の短刀が「〜藤四郎」の号で呼ばれるものが多いのは、この通称に由来する。
吉光の名刀が現代に多数伝わる理由は三つある。第一に、短刀は太刀より刃長が短いため、戦乱や火災を生き延びやすかった。第二に、豊臣秀吉・徳川将軍家など権力者の御物(ぎょぶつ)・重宝として厳重に管理されたケースが多い。第三に、「吉光」銘への評価が時代を通じて一貫して高く、所有者が代々大切に守り続けてきた。
「骨喰」の異名は、豊後の大友家に伝わった「斬る真似をしただけで相手の骨まで砕けるようだった」という伝承に由来する。種別は短刀ではなく、薙刀を磨り上げて脇差に直した薙刀直し(なぎなたなおし)の脇差で、刃長は約58.9cm。刀身には倶利伽羅龍などの彫物が施され、粟田口派の彫刻の巧みさを示す作としても知られる。
来歴の要点:大友家から足利将軍家に献上され、戦国期の混乱を経て豊臣秀吉の手に渡り、豊臣家滅亡後は徳川将軍家の所蔵となった。明暦の大火(1657年)で罹災し、越前康継(やすつぐ)系の刀工により再刃(さいは)されている。明治期に豊臣秀吉を祀る京都・豊国神社に奉納され、現在は京都国立博物館に寄託。展覧会で公開されることがある。
短刀の名手だった吉光が生涯にただ一振だけ打った太刀と伝えられることから「一期一振」の名を持つ。現在の刃長は約68.8cmで、豊臣秀吉が自身の体格に合わせて磨上げ(すりあげ)させたと伝わる。
来歴の要点:毛利家から豊臣秀吉に献上され、秀吉が深く愛蔵した。大坂夏の陣(1615年)の落城で焼け身となったが、徳川家康の命により越前康継が再刃し、以後は尾張徳川家に伝来。幕末の慶応3年(1867年)に尾張家から朝廷へ献上され、現在は皇室の御物として宮内庁が管理する。御物は文化財保護法の国宝・重要文化財指定の対象外であり、一般公開の機会はきわめて少ない。
一期一振の謎:刀剣研究者の間では「最初から太刀として制作されたのか」という議論が続いている。短刀専門の吉光としては異例の作であることが、本刀の神秘を深めている。
「厚」の名は、棟(むね)側の厚み=重ね(かさね)が約1cmと通常の短刀の倍近くあることに由来する。刃長は約21.8cm。組討ちで甲冑の隙間を突くための「鎧通し(よろいどおし)」と呼ばれる頑強な造込みの典型例だ。来歴には諸家を経た変遷があり、現在は東京国立博物館が所蔵。同館の刀剣展示室で定期的に公開される、実物を鑑賞しやすい吉光の代表作である。
江戸初期に金座を預かった後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)が所持したことに名が由来すると伝わる。刃長約27.6cmと吉光の短刀としては長寸で、身幅の広い堂々とした姿を持つ。のちに尾張徳川家に伝来し、現在は徳川美術館が所蔵する。同館の刀剣展示で公開されることがあり、名古屋でアクセスしやすい吉光鑑賞の選択肢だ。
名の由来は形ではなく逸話にある。室町期の武将・畠山政長が切腹しようとした際、この短刀は主君の腹には刺さらず、投げ捨てると傍らの薬研(やげん:薬を挽く鉄製の器具)を貫き通した——「主人の身は傷つけない」という伝説から「薬研藤四郎」と呼ばれた。
その後、松永久秀から織田信長に献上されて信長の愛刀となったが、本能寺の変(1582年)を最後に確実な消息が途絶える。焼失説・持ち出し説など諸説あるが、現在も所在不明。明治以降に「薬研藤四郎」を名乗る刀が複数現れたものの、真作と確認されたものはない。幻の名物として刀剣愛好家の間で語り継がれている。
| 名物名 | 種別 | 所蔵・管理 | 指定 | 鑑賞機会 |
|---|---|---|---|---|
| 一期一振 | 太刀 | 御物(宮内庁管理) | ──(御物) | 原則非公開 |
| 骨喰藤四郎 | 薙刀直し脇差 | 豊国神社(京都国立博物館寄託) | 重要文化財 | 特別展等 |
| 厚藤四郎 | 短刀 | 東京国立博物館 | 国宝 | 定期展示 |
| 後藤藤四郎 | 短刀 | 徳川美術館(名古屋) | 国宝 | 刀剣展示 |
| 平野藤四郎 | 短刀 | 御物(宮内庁管理) | ──(御物) | 原則非公開 |
| 鯰尾藤四郎 | 薙刀直し脇差 | 徳川美術館(名古屋) | ※ | 刀剣展示 |
| 秋田藤四郎 | 短刀 | 京都国立博物館 | 重要文化財 | 定期展示等 |
| 信濃藤四郎 | 短刀 | 致道博物館(山形・鶴岡) | 重要文化財 | 展示企画 |
| 五虎退 | 短刀 | 上杉家伝来(米沢) | ※ | 特別公開歴あり |
| 薬研藤四郎 | 短刀 | 所在不明(本能寺の変以後、消息不明) | ── | ── |
※印は本稿では指定区分の記載を省略したもの。「──(御物)」は皇室財産のため文化財指定の対象外であることを示す。豊国神社所蔵の骨喰藤四郎は京都国立博物館の展覧会で、徳川美術館・東京国立博物館の各名物は定期的な刀剣展示で公開機会がある。
骨喰・一期一振・後藤・厚藤四郎など吉光の名物に共通する技法上の特徴を整理する。
匂出来(においでき):吉光の最大の特徴は「匂(におい)」の質だ。沸(にえ)の粒子が非常に細かく均一に並び、刃文の境界が霞がかったように優美に広がる。相州伝の荒々しい沸とは対照的な「静の美」を体現する。
地鉄の明るさ:粟田口派全体の特徴として、地鉄が「明るい」という表現が使われる。これは小板目の詰み方が均質で、鍛錬時の光の反射が均一になることによる視覚的効果だ。
帽子の格調:吉光の短刀の帽子は小丸から中丸で、返りが深く品格がある。帽子の処理の丁寧さが、短刀専門家としての吉光の技術水準の高さを示す。
「あわたぐちよしみつ」と読む。京都の地名・粟田口で活動した粟田口派の刀工で、通称「藤四郎」から、吉光作の短刀は「厚藤四郎」「薬研藤四郎」のように「〜藤四郎」の号で呼ばれるものが多い。
皇室の御物として宮内庁侍従職が管理しており、原則非公開。大坂夏の陣で焼け身となったが越前康継による再刃を経て現存している。
大友家→足利将軍家→豊臣秀吉→徳川将軍家と渡り、明治期に京都・豊国神社へ奉納された。現在は京都国立博物館に寄託されている。
本能寺の変以後の確実な消息はなく、現存は確認されていない。後世に同名を称する刀が現れたが、真作と確認されたものはない。
粟田口吉光の名物刀が現代まで大切に伝えられてきた背景には、権力者による保護・刀剣文化の成熟・文化財保護意識の高さがある。厚藤四郎・後藤藤四郎のように博物館で実物を鑑賞できる名物から、御物として非公開の一期一振・平野藤四郎、行方不明の薬研藤四郎まで、一振ごとの来歴そのものが日本史の縮図だ。吉光の短刀を見るために博物館を訪れることは、日本刀鑑賞の最高の入門であり、最高の到達点でもある。