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※画像はイメージです。鉄の板を文様の形に透かした透かし鐔には、地名や家名で呼ばれるいくつもの系統がある。当サイトでは透かし鐔の系統——尾張・京・肥後で三つの透かしを取り上げたが、江戸で代を重ねた「赤坂鐔(あかさかつば)」には触れていなかった。本稿では、事典と国立博物館の目録で確かめられる範囲に絞って、赤坂鐔の成り立ちと系譜、作風、見るときの手がかりを整理する。
赤坂鐔は、江戸の赤坂に住んだ鐔工の一門が作った鐔を指す呼び名である。コトバンク「赤坂忠正」に収められた『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』によれば、初代の赤坂忠正は寛永のころ京都から江戸赤坂に移り、鐔づくりとして一派を起こしたと伝えられる。その鐔を赤坂鐔、一門を赤坂派と呼ぶ。同じ頁の『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』は、赤坂鐔の家門が幕末まで継がれ、「鉄地透かし鐔の四大主流の一派として繁栄」したと記している。
名前の取り違えにも気をつけたい。刀工の世界で「赤坂」といえば、当サイトの刀工事典にある美濃千手院(赤坂千手院)のように、美濃国の赤坂に住んだ刀鍛冶を指すことがある。こちらは刀身を鍛える鍛冶の系統で、京都から江戸赤坂に移った鐔工の一門とは別の話である。
開いた資料に書かれている代々の事績は、次のとおりである。いずれもコトバンク「赤坂忠正」とコトバンク「赤坂忠時」の記述による。
三代、そして五代から八代までの各代の名や事績は、参照した事典の項目には個別に書かれていない。流派の系図には諸説が混じりやすいため、本稿ではここに挙げた範囲を超えて代々の人名や年を補わない。
『ブリタニカ国際大百科事典』の「赤坂忠正」の項は、その作品について「厚手の鉄地で丸形の透かし鐔が多く,文様を残し地を透かし彫とする手法を好む」と記す。『日本人名大辞典』も、初代忠正について鉄の鍛錬がよく、透かし彫りに巧みであったとする。つまり赤坂鐔を見るときの軸は、鉄地の厚みと質、そして文様を鉄として残し、そのまわりの地を抜いて形を浮かび上がらせる構成にある。
透かしの技法には呼び方がいくつかあり、文献によって用語の当て方が異なることもある。用語の整理は透かし鍔の美学に譲るが、赤坂鐔については名称にこだわるより、どこが鉄として残り、どこが抜かれているかを目で追うほうが確かである。鉄地の色や肌の見方は鉄鍔の地金類型が参考になる。
銘についても一つ注意がある。同じ「赤坂忠正」の項は、作品は「すべて無名で在銘のものは存在しない」と書く。これは初代忠正の項目に書かれた記述であり、赤坂派のすべての代に当てはまるとまでは言えない。
実在する作例として、東京国立博物館の画像検索に「三階松透鐔」(列品番号 F-13601)が載っている。目録の欄は次のとおりである。
作者の欄が個人名ではなく「赤坂」とだけ記され、備考に「無銘」とある点に目を留めたい。銘が無い以上、この「赤坂」は作に刻まれた名ではなく、作風から流派に当てた見立てである。無銘の赤坂鐔は、どの代の誰の作かまでは特定されず、流派の名で扱われることがあるという一つの実例になる。
コトバンク「鐔」に収められた『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説は、京透鐔・尾張透鐔・古萩鐔などの透鐔を桃山期初期のものとし、江戸期に入るとまず肥後鐔が起こったと述べる。そのうえで「透鐔には赤坂鐔、長州鐔、越前記内などに優作が多い」と挙げている。寛永年間に江戸で始まった赤坂鐔は、京透や尾張透より後の時代に、江戸という都市で家として代を重ねた透かし鐔である。
見比べるときは、次の順で確かめると要点がつかみやすい。
ニッポニカが赤坂鐔と並べて挙げる越前記内については越前記内派の龍鍔、肥後の諸派については肥後金工の全系統で扱っている。同じ鉄の透かしでも、題材の選び方や抜きの密度は系統ごとに異なるので、並べて見ることで赤坂鐔の厚みのある造形がより際立って見えてくる。
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