※画像はイメージです。山内千代(見性院)
Yamauchi Chiyo (Kenshō-in)
土佐藩主正室
解説
生涯
見性院(千代)は弘治3年(1557年)、近江国生まれと伝わる。出自には諸説あり、浅井氏の家臣・若宮友興の娘とする説、美濃の豪族・遠藤盛数の娘とする説などがあるが、いずれも定かではない。本名も「千代」「まつ」の両説があり判然としない。一豊の母が身を寄せていた近江国宇賀野の長野氏のもとで裁縫を教えていた際に一豊の目に留まり、妻となったと伝わる。
内助の功の逸話
見性院を代表する逸話は、嫁入りの持参金で名馬「鏡栗毛」を購入したという話である。天正10年(1582年)、織田信長が京都で催した馬揃えの際にこの馬が信長の目に留まり、一豊の武名と加増につながったと伝えられる。ただしこの逸話は江戸時代に成立したとみられ、近年の研究では史実性を疑問視する見解も示されている。このほか、枡を裏返してまな板の代わりに使ったり、自らの黒髪を売って普請に従事する人足の夜食代を工面したとする逸話も伝わる。
家族
一豊との間に一女・与祢をもうけたが、天正13年(1585年)の天正地震で若くして亡くなった。その後、捨て子を引き取って養育し、この子は湘南宗化として妙心寺で修行僧となった。一豊の弟・康豊の子である忠義を養子に迎え、山内家の後継とした。
晩年
慶長10年(1605年)に一豊が没すると、見性院は土佐を離れて京都へ移り、高台院(ねね)の屋敷近くに居を構えた。徳川家から千石の隠居料を与えられ、豊臣・徳川両家との関係維持に努めたとされる。晩年は『古今和歌集』や『徒然草』を愛読し、和歌や書をよくしたと伝わる。元和3年12月4日(1617年)、湘南宗化に看取られて没した。享年61。
後世評価
見性院の内助の功の逸話は近代以降、良妻賢母の象徴として学校教育でも取り上げられ、広く知られるようになった。夫を支えて出世させた妻の代表例として、後世の講談や小説、テレビドラマ等でもたびたび取り上げられている。