※画像はイメージです。筒井順慶
Tsutsui Junkei
大名
解説
興福寺衆徒から大和の実力者へ
筒井順慶は天文十八年(1549年)、大和の筒井順昭の子として生まれた。筒井氏は興福寺一乗院に属する衆徒(官符衆徒)の家柄で、奈良市中の管理にあたるうちに武士化し、父・順昭の代には大和最大の武士団に成長していた。順慶は天文十九年(1550年)、わずか二歳で家督を継ぐ。のちに得度して陽舜房順慶と号し、権少僧都に任じられた。僧籍にありながら国衆を率いるという、大和特有の在り方を体現した武将である。
松永久秀との抗争
順慶の前半生は、大和へ侵攻した松永久秀との激しい争奪戦に費やされた。永禄二年(1559年)から久秀の侵攻が本格化し、永禄八年(1565年)十一月十八日には本拠の筒井城を追われた。翌永禄九年六月八日に筒井城を奪回するが、永禄十年十月十日の東大寺大仏殿の戦いでは大敗を喫し、この戦火で大仏殿が焼失している。しかし元亀二年(1571年)八月四日の辰市城の戦いで松永軍を破り、筒井城を再び手中に収めた。十年以上にわたるこの抗争を通じて、順慶は大和の主導権を握るに至る。
織田信長への臣従と大和一国支配
元亀二年(1571年)十月二十五日、順慶は明智光秀の斡旋により織田信長に臣従した。天正五年(1577年)には「大和一国一円筒井順慶存知」として、信長から大和一国の支配を委ねられる。天正八年(1580年)、信長の一国破城令によって筒井城をはじめとする大和の諸城が破却され、順慶は郡山城へ本拠を移し、同年十一月十二日に入城した。以後、郡山城は大和支配の中枢となる。順慶は光秀の与力に位置づけられ、教養人同士として親交も深かったとされる。
洞ヶ峠の虚実
順慶の名を後世に広めたのは、天正十年(1582年)の本能寺の変に際して洞ヶ峠に陣を張り、明智方と羽柴方の勝敗を眺めて日和見したという逸話である。「洞ヶ峠を決め込む」という慣用句の由来ともなったこの話は、しかし良質の同時代史料では確認できず、『太閤記』などの後代の読み物や誤りの多い『増補筒井家記』に記されるにすぎない。実際の順慶は六月十日頃には羽柴秀吉への恭順を決意しており、山崎の戦いには積極的に加わらず、消極的な出兵にとどまった。六月十四日に秀吉へ拝謁した際には参陣の遅れを「曲事」と叱責され、七月十一日に養子の定次を人質として差し出して臣従を確かなものとしている。
大和の刀剣文化との接点
大和国は古来、東大寺・興福寺をはじめとする大寺社の需要を背景に、千手院・手掻・尻懸・保昌・当麻の大和五派と呼ばれる刀工集団を育んだ土地である。興福寺衆徒を出自とする筒井氏の立場は、この寺社と武力が一体となった大和特有の構造そのものであった。ただし順慶個人が特定の名刀を所持したことを示す確かな記録は乏しく、彼が愛好した文物として伝わるのはむしろ謡曲や茶の湯といった芸能・茶事の方面である。
最期と筒井家のその後
天正十二年八月十一日(1584年9月15日)、順慶は郡山城で病没した。三十六歳という若さであった。家督は養子の定次が継いだが、のちに伊賀上野へ移封され、慶長十三年(1608年)に改易、慶長二十年(1615年)三月に切腹して筒井家は絶えた。戦国末期の大和という、寺社勢力と国衆が複雑に絡む土地を四十年近く支え続けた順慶の生涯は、中央の覇者に翻弄されながらも郷土を保った地域領主の典型として評価されている。