※画像はイメージです。寺田宗有
Terada Muneari
中西道場の重鎮・「形剣術の日本最終の名手」
解説
寺田宗有(てらだ むねあり、延享2年〈1745年〉〜文政8年〈1825年〉9月13日)は、江戸時代中期から後期にかけての剣客。高崎藩士の家に生まれ、若くして竹刀稽古への疑問から中西派一刀流を離れながらも、後年江戸に戻って一刀流の皆伝を受け、中西道場の重鎮として同派を支えた。
出自と初期修行
高崎藩士・寺田五郎右衛門宗定の子として生まれた。15歳で中西派一刀流の道場に入門したが、当時導入されつつあった竹刀・防具による稽古法を剣術の本義に反するものとして疑問視し、17歳で道場を離れたと伝わる。その後18歳で高崎藩に出仕し、平常無敵流の池田八左衛門成春に師事して12年間修行を積んだほか、弓術・砲術・槍術・柔術も学び、いずれも免許を得たという。
一刀流への回帰
寛政8年(1796年)、藩命により江戸の中西道場に戻ることとなった。寛政12年(1800年)、56歳にして一刀流の皆伝を受ける。翌享和元年(1801年)、師である中西子啓が急逝すると、宗有はわずか15歳で家督を継いだ4代目・中西子正の後見役として、中西道場の存続を支えた。
中西道場の三羽烏
この頃、宗有は高柳又四郎・白井亨とともに「中西道場の三羽烏」と称され、なかでも宗有は筆頭格と見なされていた。門弟の白井亨には、後に自ら開いた天真一刀流の印可を授けたと伝わる。
刀剣との関わり
宗有の剣は、竹刀稽古全盛の時代にあってなお、形(かた)による組太刀を究めた古風な剣理に根ざしていた。剣術史家・綿谷雪は宗有を「形剣術では日本最終の名手」と評し、「組太刀で天下無敵といわれた人物は、この両人(宗有・白井亨)以後には出現しなかった」と述べている。
後世の評価
文政8年(1825年)、81歳で没し、高崎の広徳寺に葬られた。竹刀稽古が主流となっていく剣術史の転換期にあって、古式の組太刀剣術の到達点を体現した剣客として、また白井亨ら次代の名手を育てた師として、今日も高く評価されている。
所持した刀剣
- 中西道場に伝わる一刀流の組太刀——竹刀稽古が広がる時代にあって、宗有が体得し極めた形剣術の伝書。白井亨へと相伝された剣理の系譜そのもの