※画像はイメージです。田村清顕
Tamura Kiyoaki
娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせた陸奥三春の戦国大名——坂上田村麻呂の後裔を称した田村氏当主
解説
田村清顕(たむら きよあき)は、戦国時代の陸奥国の戦国大名で、田村氏の25代当主。田村氏は初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫と称した。官位は大膳大夫。生年は不明で、天正14年10月9日(1586年11月19日)に没した。
家系
父は田村隆顕(天正2年〔1574年〕没)、母は伊達稙宗の娘。弟に田村氏顕がいる。正室は相馬顕胤の娘・於北(相馬盛胤の妹)で、実子は一人娘の愛姫(永禄11年〔1568年〕〜承応2年〔1653年〕)のみ。養子に氏顕の子・宗顕(1574年頃〜1648年頃)がいる。
伊達氏との結びつき
父・隆顕の死後に家督を継いだ。佐竹氏や蘆名氏に対抗するため、愛姫を伊達政宗の正室として嫁がせ、伊達軍の援軍を得て独立を保った。愛姫は田村御前、のちに陽徳院とも呼ばれる。
伊達・相馬の調停
伊達氏と相馬氏の間に領土問題が生じた際には、佐竹義重と岩城常隆を介入させて伊達輝宗に圧力をかけ、相馬義胤から丸森城を伊達氏に返還させる形で両者を和睦させた。この調停には正室・於北の関与もあったとされる。田村・相馬の両家は、伊達家に対して保守的な独立状態を保っていたとされる。
織田信長との交誼
織田信長と誼を通じていたとされ、天正3年(1575年)の長篠合戦で多くの兵を討ち取ったことを、信長から書状で伝えられたという。
没後
清顕には愛姫のほかに子、とくに男子がなかったため、天正14年(1586年)の死後、後継をめぐって田村家中、伊達家、相馬家の間で再び争いが起きた。最終的には伊達政宗により、弟・氏顕の子である宗顕が後継とされた。
後世評価
父・隆顕と同様に英明な武将として知られる。娘の愛姫が伊達政宗の正室となったことで、その名は伊達家の歴史とも結びついて伝わる。