※画像はイメージです。大友親貞
Ōtomo Chikasada
大友氏一門・今山の戦い総大将
解説
概要
大友親貞は戦国時代の武将で、豊後の戦国大名・大友氏の一門。元亀元年(1570年)、肥前の龍造寺隆信を攻めた今山の戦いで大友方の総大将を務め、奇襲を受けて討死した。
出自をめぐる諸説
親貞の出自は史料により記述が分かれる。大友宗麟の叔父にあたる菊池義武(大友義鑑の弟)の嫡子とする説、義武の子とする説、大友義鑑の子とする説などがあり、宗麟の従弟とも弟とも記される。いずれの説をとるにせよ大友氏一門として遇され、当主宗麟から大軍の指揮を委ねられる立場にあった。
今山の戦い
元亀元年(1570年)、大友宗麟は肥前で勢力を伸ばす龍造寺隆信の討伐を決し、親貞を総大将として派遣した。親貞は6万と称される大軍を率いて肥前へ侵攻し、龍造寺氏の居城である佐嘉城(のちの佐賀城)を包囲する。兵力差は圧倒的で、龍造寺方は籠城を余儀なくされた。
討死とその影響
同年8月20日、龍造寺方の鍋島直茂らが夜陰に乗じ、大友本陣の置かれた今山を急襲した。油断していた大友軍は混乱に陥り、親貞は龍造寺方の武将・成松信勝に討ち取られた。6人がかりで突き伏せられたと伝わる。総大将を失った大友軍は撤退し、この敗戦は九州における大友氏の威信を損なう一方、龍造寺隆信が肥前の覇権を確立する転機となった。以後、大友・龍造寺・島津の三氏が九州の覇を争う構図が明確になっていく。