※画像はイメージです。大村純忠
Ōmura Sumitada
大名
解説
有馬氏から大村家へ
大村純忠は天文二年(1533年)、肥前の有馬晴純の次男として生まれた。母が大村純伊の娘であった縁により、天文七年(1538年)に叔父にあたる大村純前の養嗣子となり、天文十九年(1550年)に大村家の家督を継いだ。官位は民部大輔、のち丹後守を称した。養子入りによって家督を得た経緯は、のちに実家の血を引く後藤貴明らとの深刻な対立を招く火種となる。
日本最初のキリシタン大名
永禄六年(1563年)、純忠はイエズス会のコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、洗礼名ドン・バルトロメウを名乗った。大名としての受洗はこれが日本で最初とされ、以後の九州キリシタン史の起点となった。純忠の信仰は個人的なものにとどまらず、領内で大規模な布教が行われ、領民の多数が改宗したと伝えられる。一方で寺社の破壊、仏僧の追放、改宗を拒む者への迫害といった強硬な宗教政策も記録されており、その統治は評価の分かれるところである。
南蛮貿易と長崎開港
純忠の政策の核心は、キリスト教布教の許可と引き換えにポルトガル船を領内へ招き、南蛮貿易の利を得ることにあった。永禄五年(1562年)に横瀬浦をポルトガル船に開いたが、この港は一年ほどで戦火により失われた。福田を経て、元亀二年(1571年)に長崎を開港し、ここが以後の南蛮貿易の中心地となる。輸入品は生糸や絹織物が中心で、鉄砲などの武器も含まれた。火器の流入は九州の合戦のあり方を変え、医学・天文学・音楽・美術といった南蛮文化も同時に流入した。
家中の抗争と龍造寺氏への従属
純忠の領国経営は常に外圧と内訌にさらされた。養子入りによって家督から外れた実兄の子・後藤貴明は反攻を繰り返し、横瀬浦が焼き払われる事態も生じた。元亀三年(1572年)には貴明勢が居城の三城城を急襲したが、純忠はわずかな手勢で持ちこたえてこれを退けた。この籠城は「三城七騎籠り」として伝えられる。天正四年から五年頃には肥前の雄・龍造寺隆信の圧迫を受けてほぼ従属状態となり、天正十二年(1584年)の沖田畷の戦いには龍造寺方として従軍している。
長崎寄進と天正遣欧少年使節
天正八年(1580年)、純忠は長崎および茂木をイエズス会に教会領として寄進した。周辺勢力が長崎を攻めればポルトガルを敵に回すことになるため、寄進は交易拠点と領地の安全を同時に守る現実的な方策でもあった。イエズス会による長崎の直轄支配は天正十五年(1587年)まで続く。天正十年(1582年)には巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと会見し、有馬晴信・大友宗麟とともに少年使節のローマ派遣を決定した。純忠の名代となったのは甥の千々石ミゲルである。
最期と歴史的評価
天正十五年(1587年)三月、豊臣秀吉の九州平定に従って本領を安堵されたが、同年五月十八日(新暦六月二十三日)に病没した。秀吉がバテレン追放令を発したのはその翌月であり、純忠は自らの信仰と交易政策が根底から覆される事態を見ることなく世を去った。家督は嫡子・喜前(洗礼名サンチョ)が継いだ。日本で最初に洗礼を受けた大名として、また長崎という近世日本最大の国際港を開いた為政者として、純忠の名は日本の対外交流史に刻まれている。