※画像はイメージです。永倉新八
Nagakura Shinpachi
新選組二番隊組長——神道無念流の達人にして池田屋事件の最前線を駆けた幕末最強の実戦剣士、明治まで生き延びた最後の幹部
解説
神道無念流の俊英
天保十年(一八三九年)、松前藩士の子として生まれた永倉新八は、幼少より武芸に秀で、江戸で神道無念流・岡田十松の撃剣館に入門した。神道無念流は福井兵右衛門嘉平を流祖とする剣術流派で、豪快な攻撃と素早い技を特徴とする実戦的な剣法である。新八はここで頭角を現し、入塾わずかで師範代を務めるほどの腕前に達した。
試衛館との出会いと新選組結成
神道無念流で腕を磨いた新八は、近藤勇・土方歳三らが集う試衛館と交流を持ち、文久三年(一八六三年)の浪士組上洛に参加した。新選組の結成に際しては二番隊組長に任ぜられ、その剣技は「新選組最強の剣士の一人」と称されるほどであった。土方歳三の「局中法度」という厳しい規律には批判的な側面もあったが、新選組の剣士として数多くの実戦をくぐり抜けた。
池田屋事件での活躍
元治元年(一八六四年)六月五日の池田屋事件において、新八は近藤勇とともに最初に池田屋に突入した。狭い座敷での斬り合いは熾烈を極め、新八は複数の尊攘志士を斬り倒したとされる。この戦いで新八自身も傷を負いながら奮戦し続け、その勇猛さは新選組内でも伝説となった。池田屋事件の詳細な記録を後年残したのも新八自身であり、その回顧録は幕末史の重要な一次資料となっている。
愛刀・播磨守勝光
新八の愛刀として伝わるのは「播磨守勝光」である。播磨守勝光は江戸時代中期から後期にかけて活躍した刀工で、実戦での使い勝手の良さに定評があった。新八が神道無念流の豪快な斬撃を活かした戦い方を好んだことから、重ねが厚く堅牢な勝光の刀は相性が良かったとされる。また「大和守安定」も使用したとの記録があり、幕末の剣士たちに広く愛された安定の刀は、新選組内でも複数の隊士が愛用した。
戊辰戦争と明治への生還
鳥羽・伏見の戦い(一八六八年)後も新八は転戦を続けたが、やがて近藤勇・土方歳三らと袂を分かつ形となった。明治維新後は各地を転々とし、晩年は北海道の小樽に落ち着いた。大正四年(一九一五年)、七十七歳で没するまで、新選組の記憶を語り継ぐ生き証人として重要な役割を果たした。新八が残した回顧録「浪士文久報国記事」は、新選組の実態を伝える最も貴重な史料の一つである。幕末の激動を生き抜き、明治・大正まで生存した新八の存在は、新選組の歴史において特別な意味を持つ。
所持した刀剣
- 播磨守勝光(江戸時代中期〜後期の刀工・播磨守勝光の作。実戦での耐久性と切れ味で評価が高く、新八が好んだ神道無念流の豪快な斬撃に適した重ねの厚い堅牢な刀)
- 大和守安定(幕末に新選組隊士の間で特に愛用された実戦刀工・安定の作。人を斬ることに優れた刀として幕末の実戦家たちが選んだ一振りで、新八もこれを使用したとの記録がある)