※画像はイメージです。戦国時代後期〜安土桃山時代1561-1597
来島通総
Kurushima Michisō
瀬戸内の海賊衆・来島水軍の頭領——朝鮮の役に散った毛利の海の将
解説
瀬戸内を制した来島水軍の頭領
永禄四年(一五六一年)に生まれた来島通総は、伊予国(現・愛媛県今治市沖)の来島を本拠とする来島水軍の頭領。来島水軍は村上水軍の一支族であり、三島村上水軍(来島・能島・因島)のなかでも最も西の拠点を持ち、毛利氏との連携を深めながら瀬戸内の制海権争いで中心的役割を果たした。通総はその地の利と鍛え抜かれた水軍衆を率い、織田・豊臣政権下においても独自の海上勢力を維持した。
毛利氏の水軍将として
通総は毛利輝元に仕え、豊臣政権下では伊予国に所領を安堵された。天正十年(一五八二年)の本能寺の変後、豊臣秀吉の天下統一過程においては毛利に従いつつも、巧みな立ち回りで来島水軍の存続を図った。文禄の役(一五九二年)では水軍を率いて朝鮮半島の海域に出兵し、海上輸送の任を担った。その卓越した操船技術と戦術眼は、秀吉政権下でも高く評価された。
朝鮮の役での壮烈な最期
慶長二年(一五九七年)の慶長の役において、通総は水軍を率いて朝鮮へ出兵した。同年九月の鳴梁海戦で先鋒として海峡に突入したが、李舜臣率いる朝鮮水軍の反撃を受けて討ち死にした。享年三十七。朝鮮の役で戦死した数少ない大名の一人として、その勇名は後世に伝えられた。
所持した刀剣
- 来島の打刀——瀬戸内の制海を担った来島水軍頭領が帯びた実戦的な打刀。船上の白兵戦に適した取り回しの良い刃は、海の武士・通総が鳴梁海戦で命を懸けた来島水軍の魂を体現する
- 伊予の太刀——来島氏の本拠・伊予国の刀工が鍛えた格式ある太刀。三島村上水軍の一翼を担い、毛利氏の海上覇権を支えた水軍将の誇りと、朝鮮の役に殉じた壮烈な最期の気概を今に伝える