※画像はイメージです。神保雪子
Jinbo Yukiko
会津戊辰戦争の悲劇の女性
解説
神保雪子(じんぼ ゆきこ)は弘化2年(1845年)、会津藩士で軍学者の井上丘隅の娘として生まれた。会津藩家老・神保利孝の子で、国際的な知見を持ち白虎隊の組織化などにも関わったとされる神保修理に嫁いだ。しかし修理は慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いののち、新政府軍への恭順を進言した責任を問われ、家中の反発を受けて江戸の三田下屋敷で切腹させられている。夫を失った時点で雪子はまだ二十代前半であった。
夫の死後まもなく戊辰戦争(会津戦争)が本格化し、慶応4年(1868年)8月、新政府軍が会津若松城下に迫った。会津藩は藩士の家族を含めた総力戦の様相を呈し、多くの女性たちが城内外での戦闘や後方支援に関わったとされる。雪子は、中野竹子らが率いた女性だけの部隊(娘子隊、婦女隊とも呼ばれる)に加わり、城外での戦闘に参加したと長く語られてきた。しかし、後年の調査ではこの点に異論も出ている。雪子は遂に合流しなかったとする水島菊子の証言を受けて、会津藩出身で、のちに物理学者・東京帝国大学総長を務めた山川健次郎が調べ直したところ、雪子が娘子隊と合流した事実は確認できなかったものの、竹子の戦死地と同じ涙橋付近で雪子が戦死したことは確かだとされた。一方、戦後に土佐藩士・吉松速之助が伝えたとされる証言では、雪子は大垣藩の兵に捕らえられて会津坂下の長命寺に拘束され、吉松に請うて借りた短刀で自ら命を絶ったという、さらに悲劇的な経緯が語られている。
このように、雪子が実際に娘子隊の一員として組織的な戦闘に加わったのか、どの場所で、どのような経緯で命を落としたのかについては、複数の異なる説が並立しており、確定的な史実として一つに絞ることはできない。史料の不足という前提を踏まえた上で、会津の女性たちが相次いで夫を失いながらも、藩の存亡をかけた戦いに否応なく巻き込まれていった戊辰戦争の悲劇を象徴する人物の一人として、今日まで語り継がれている。
所持した刀剣
- 短刀(捕縛後、土佐藩士・吉松速之助に請うて借り、自刃に用いたと伝わる一説による)